目の前のことが本当に見えているか
8:46
京都滞在、最後の朝である。宿近くの喫茶店でこれを書いて、東京に帰ろう。
12/19から1ヶ月間、わたしは京都で過ごしていた。理由は、京都が好きすぎるのと突っ走りすぎた仕事をセーブしたかったから。それだけじゃなくって他にもいろいろあるけれど、総じて京都に来たかった。つまづきをなにかと解決してくれる場所。
1ヶ月いてどうだったか、というのはどのように書いても経験したわたししか知り得ないと思うので書かない。観光じゃないから尚更。だからいまここでポッと出た、素直なことばを書き残しておきます。
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いま考えているのは主に仕事について、その次に生き方。
仕事についてはどこからどうみても恵まれていると思う。
好きな働き方で、好きな仕事。毎月が終わるたびに確実に成長を感じられるうれしさ。質の向上、働き方の試行錯誤をすればするたびじぶんのモノになっていく快感。
これが21年間積み上げてきたことすべての結果だとしたらうれしいけど、それにしても。感謝しつつも、恵まれているのが当たり前になってはいないかとハッとする。
もちろん仕事はたのしい、からださえ健康であればいつだって。
でもわたしの未来はどこにある?と、たまに陥る。見切り発車してさらに突っ走ってしまった分、イマイチ先が見えていない。あれ、どこを走っているんだろうわたしは。なにがしたい?本当は。どうしよう。
てなことを、京都にいる間はずっと考えていたみたい。
誰に言われるわけでもないけど常に、勝手に焦ってる。「とは言え、どこかで言われてるんじゃないか」とさえ思う、言われてんのかな。もしかして、生ぬるい水槽のなかにいる魚はわたしじゃないのか?答えは見つからないままです、でもまだ見つからなくていい。簡単に得たものは失いやすいから、せめて焦る気持ちだけどうにかしたい。
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生き方といえば、じぶんを甘やかすのが”さらに”得意になってしまった。
しんどい時、じぶんを甘やかす方法をひとつくらい知っていたほうが長生きできると思う。でもそれが日課になってしまった途端にきもちの切り替えができなくなった。
時間とお金の使い方がだらしない。同時に心身もゆるむ。姿見にうつるとき、夜眠る前、最も嫌なきもち。
切り替えができない、つまりメリハリが無くなると(精神的な)休息をとるのがだんだん下手っぴになる。
からだは休んでいてもずっと疲れた状態がぬぐえなくって、人の文章が読めなければじぶんの文章だって書けない(書けてもまとまりがないよね)。文章を書くことは散り散りになってうるさい頭のなかを整理整頓するのにうってつけなのだがそれすら出来なくなると、わたしはわたしがなんなのかわからなくなって非常に困る。ぎゃあ、わたしは困っている!
ついでに季節性うつのケがあって。冬は特にだめだからつぶれる前に東京をはなれ、仕事をセーブしつつ1ヶ月のんびりと過ごしていたけど。昨年、うつ病の治療で「あんまり休みすぎると社会復帰できなくなるから」と言われたのを今なら理解できる。休みすぎも、わたしにはあまり向いてない。過剰な暇は時に毒。
もうだらだらでへろへろだ、甘やかしすぎて休んだくせにがんばれない、猫になってしまいたい!
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なーんて言っても明日の朝、夜行バスを降りたころにはきっとすぐ仕事脳に戻るよ。都合のよすぎるビジネス書のような綺麗な人生を取り繕って、”大好きな”仕事をバリバリこなせば自然と生きている心地がするんだろうな。自慰的に。そう自慰的に!
京都にきてからは目の前の人やモノを直視するように心がけて、そしたら、わたしは東京でつまんねー女をやっているなと思った。
わー!!わたしってめちゃくちゃつまんねー女!!!
本当に素敵で芯からかっこいい人・モノは、いつだって目の前にある。あらま青い鳥。
自慰的であるがゆえに、目の前が見えていなかった。目をつぶった暗やみに、虚像ばかりをうつしては陶酔してしまうのがわたしである。これでは仕事も人生も、ほんの一寸先だって見えるわけがない。
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もう少し先を見据えられるようになりたい。先が見えている人は言われなくてもわかる。なぜなら目の前のことを決してないがしろにしていないから。わたしはないがしろにしている(ごめんなさい)。だから東京へ帰っても、目の前のことを抱きしめるわ全力で。わたしはもう、じつはちょっとずつ変わっているんだよ。でもしばらく内緒にしててね
欲張らない、背伸びをしすぎない、手元にあるものを育てよう。まとまりませんが、春が早く来ればいいのにと思っています。