liberté リベルテ/自由 【1】
□ 第一話 田坂真人
ミチルは、駅前の喫茶店の席に座るなりメニューも見ずにケーキと赤ワインにしようと決めた。
カラダが、というよりキモチの方が疲れていて、糖分とアルコールでその疲れを流してしまいたかった。
田坂の方はメニューをざっと見回しても決まらず、ミチルに
「何?」
と聞いてきた。田坂は、えっそんな組み合わせあり?と言いつつも、俺も真似してみよう、と結局ミチルと同じものを注文した。
「結構いけるじゃん」おいしそうに食べる田坂に
「でしょ?赤ワインとケーキって結構いけるんだよ」ミチルは半ば得意そうに答えた。
東急東横線の住吉駅に、週末になるたびにふたりで通い始めてからひと月ほどがたつ。
ふたりはもうすぐ結婚する予定で、一緒に住むことになるアパートを探していた。
横須賀にほど近い研究室で自動車のエンジニアをしている田坂と、お茶の水駅にある会社でOLをしているミチルが「ちょうど中間あたり」と決めたのが住吉駅だった。
玄人の目にはもうバブルなどはじけてしまったあとの時期だったはずだ。
不幸にも素人の目にはまだまだ景気が悪いことなど露ほどににも見えておらず、ミチルと田坂も他の大勢の日本人と同様消えかかっていたはずのバブル景気に踊らされていた。
不動産は今買っておかないと損
そんな文句があちこちで聞かれた。
それがどういう根拠で言われているのか、そんなことはまるで無知なふたりだった。
ミチルと田坂はただただ「ふたりで住む家」探しに夢中になっていた。
ミチルは大学時代からずっと賃貸アパートで生活をして、十年近くがたとうとしていた。
家賃を払う、ということが、お金を捨てていることに思えて、もったいなくてたまらなかった。
結婚を機に、どうせ似たような金額を払うのなら資産として残るようローンを組んでもアパートを購入したいというのがミチルの意見で、ミチルの親からは頭金の援助をしてもらうことに話が決まっていた。
住吉駅の周辺にはそれこそ「新婚向けなおかつ子どもがすぐに生まれても大丈夫」系のアパートが林立しており、ここのところ毎週不動産やへ予約を入れてはアパートを訪問見学する、ということを続けていた。
田坂がいいなと思った超高層アパートはミチルが「なんだか刑務所みたいでいや」と言い、それならこじんまりしたところを、と訪ねてみると、古すぎて水周りが汚らしくてやっぱり気にいらない、でなかなか決まらなかった。
ミチルはそれまでに、東京都内で何度か引越しをしたせいで、アパートとの相性とか部屋に入った時に感じる縁のようなものを、経験として知っていた。
自分が住む場所は、そこへ入ったとたんにわかるはずだ、というような説明のつかない確信があった。
なんだかんだと理由を並べてみても、結局はミチルの「どうもピントこない」という一言で、ふたりの愛の巣になるだろうアパートはなかなか決まろうとしなかった。
頭金のおおよそをミチルの親が出す、ということは、暗黙的に「ミチルの気に入るアパートを探す」ことにつながっていて、田坂はあえて自分の主張を控えているのだ。
「いっそのこと駅をかえてみてもいいのかなあ」
独り言を言ったつもりだったのに、
「んだな。ミチルがそう言うんだったらそれでもいいよ」
田坂が努めて明るい調子で答える。田坂はいつもミチルの意見には賛成だった。
ミチルと田坂が知り合ったのは、六本木のすし屋だった。
その店は田坂の大学のテニス部がバイトをするという伝統が出来上がっていて、当時田坂はテニス部の主将だった。
どういう経由からか、他大学の、それもテニス部とは無縁のミチルの友人がまず紹介で入り、次にミチルがその友人の紹介で入った。
ミチルは土曜日のみの出勤で、ビジネス街らしく、お店は閑散としていることが多かった。
たまに大人数の予約客が入ることがあって、そういう日にはミチル以外のアルバイト生が、何人か入ることになっていた。
ミチルがカウンターを水拭きしていたら、引き戸を開ける音とともに
「はよーっす」
と言いながら入ってきたのが田坂だった。テニス部らしく、よく日に焼けている。
目がきらきらしているな、ミチルはそう思った。
その日の帰りの電車の中で、ミチルは田坂に電話番号を聞かれた。
そしてその日を境に、ミチルしか出ないはずの土曜日に、田坂が進んで出てくるようになった。
板前さんたちからは「こんなヒマな日におめーなんでくんだよ」とからからかわれたりした。
そう言いながらも疲れ知らずの男の子がひとり入ると、裏で皿笑い専門のパートとして入っていたおばさんは大助かりで、
「あーら。わたしは田坂くんが来てくれてとってもうれしいわあ」
と助け舟とも取れるようなことを言った。
「寝てるとき以外はテニスのことを考えてる」
田坂はよくそんな風に言った。そしてそれは本当だろうなとミチルは思った。
「いいな。そんなに打ち込めるものがあって。わたしはなにもない」
ミチルが言うと
「ミチルはいいの。ミチルはかわいいから」
田坂はそう言ってミチルの髪の毛をくしゃくしゃにした。
お互いに四年生になった。
田坂はテニス部を引退し、卒業後は大学院へ進学することを決めた。
ある自動車メーカーから奨学金をもらい、大学院ではその自動車のことを研究する。
卒業後はそのメーカーへ就職して、奨学金を返却していくのだという。
「ソニーからウォークマンが出たのって、俺たちが小四の時なんだけどさ。
そん時俺思ったんだよ。こういうの作れる人になりてーなって」
小学生の頃に「ウォークマン」は人が作った器械で、そんな器械を作る人になりたい、という気持ちを今目の前で実現させようとしている、それはウォークマンではなくて、自動車という器械にカタチを変えてはいたけれど、そんな田坂をミチルはかっこいいなと思った。
田坂は小学生のころからすでに「器械をつくる」ことを仕事にしようと決めて、それを目標にして勉強を続けてきたのだ。
なんで役に立ちそうもない勉強をしなければならないの?
いつもそうやって学校をはすに見て生きてきたミチルには田坂のはっきりしたわかりやすい生き方がとても新鮮だった。
食事。お酒。映画。リュックを背負っての小旅行。
ミチルにとってとりわけ楽しかったのは田坂に教えてもらうテニス・レッスだった。
「ミチルはなかなか筋がいいよ」
「テニスって休んでる間にうまくなるんだ。だから来週ミチルはもっとうまくなってるはずだよ」
田坂は楽しそうに言った。
大学のお昼休みに、ふたりでよく代々木公園でピクニックをした。
今日はミチルがビールで、田坂がサンドイッチ。
この前そうだったから今日は逆ね。
お互いにビールとサンドイッチを持ち合って、それを芝生の上で食べた。
その日も、前日から約束をして代々木公園でお昼を一緒に食べることになっていた。
会った瞬間、田坂の様子がいつもと違うということにミチルは気がついた。
泣いているのだ。
涙は流れいないけれど、田坂は確かに泣いていた。
ビールとサンドイッチの、お約束のお昼ご飯をすませてから、ミチルは聞いた。
「ねえ?どうして泣いてんの?」
「えっ?!なに言ってんだよ、泣いてねーよ」
田坂はすぐに否定したけれど、そのうち芝生をむしゃむしゃむしりながら、ぽつぽつと話しはじめた。
田坂にはミチルと付き合うずっと前から特定のガールフレンドがいた。
同じ大学のテニス部の部長をしている人。
ミチルは会ったことがなかったけれど、なにせ私大のテニス部主将同士の黄金コンビカップルだ。
ふたりのことがミチルの耳に入らなかったわけはない。
ミチルは、自分の方があとから田坂の人生に飛び入りしたのだし、田坂がそのガールフレンドと付き合い続けるのはそれでそれでいいと思っていた。
だってわたしたちはそれぞれ自由なのだから、と。
田坂はそのガールフレンドと別れる決心をし、昨日それを彼女に伝えたらしかった。
田坂は、ふたまたをかけている自分に耐えきれなくなっていたのだろう。
しかしガーフレンドを嫌いになったわけではないからそれがつらくて泣いてしまうのだった。
昨日もバイトしながら一日泣いていたのだと言う。
「泣くくらいなら、なんで別れんの?だって好きなんでしょう?」
聞き分けの悪い子どもをしかりつける母親のような口調でミチルが言った。
けして強がって言っているのではなく、これがミチルの本心だった。
ミチルは田坂にガーフフレンドがいることで、わたしは自由なんだと思いたかった。
田坂の自由を尊重するかわりに、自分の自由も確保していたかった。
でも今、田坂はミチルを選んだのだ。
あーあ。これでわたし一本になったか。
「責任」というほどのことではない、それでもそれに似たような気持ちを抱いて憂うつそうにしながら、でもどこかで、勝っちゃったなわたし、と舌を出していたのもまた、ミチルの本心だった。
そして間もなく、田坂は大学院へ進学し、ミチルは事務用品メーカーのOLになった。
ミチルは、就職してすぐに田坂の元ガールフレンドが結婚するらしいと聞いた。
相手は就職先の証券会社の同僚だとか。
披露宴に招待されて「断る理由はなにもないから」と参加した田坂は
「すんげー幸せそうだったぜ。新婚旅行は北のほうへ行きます、だってそのほうがお互いに温めあえるでしょ、とかゆっちゃってんの」
とあのまた泣いた顔で言っていた。
ミチルが働き出して五年くらいたった頃だった。
田坂は大学院を卒業したあとに予定通り自動車メーカーに就職を果たして三年が過ぎていた。
ふたりは行きつけのバーでウィスキーを飲んでいた。
「今すぐ、てわけにはいかねーんだけどさ、仕事がもう少し落ち着いたら俺と結婚してくれないかな」
田坂は言うべきセリフを準備して来ていたらしい。
「仕事が落ち着いたらって、わたしじゃあ三十になっちゃうじゃん」
ミチルはとっさにそう答えたのだが、内心くるべき時がきたんだなという気持ちだった。
ふたりが付き合っている時間は周りの同世代のカップルと比較すると桁違いに長かった。
大学の卒業旅行ではふたりでインドネシアのバリ島へ行き、約ひと月間一緒に過ごした。
ふたりにはそれなりに乗り越えてきたものがあると思っていたし、それになによりミチルは田坂のことが好きだった。
結婚、という具体的な話がでるずっと前から、ミチルは田坂にしつこいほどに繰り返して言っていたことがあった。
「わたしは、結婚披露宴だけはしたくない」
ということである。
ミチルが大学生の時、ふたりの兄が同じ年に続けて結婚した。
その時に兄嫁がぐちっていた
「箸入れにさえ値段がついている」
「首を右から左にふっただけでも金を取られる」
という結婚式場のあこぎな商売根性が嫌いだったという以前に、ミチルはどうしても「華やかな場所で一日だけ主人公になる」というその習慣が、とてつもなく格好悪いことに思えて仕方がなかった。
一日で三百万だの五百万だのという大金が消えてなくなる、というのにも許しがたいものを感じていた。
「結婚することを披露する」、そのことだけに消費する金額とはとても思えない。
そのお金があるんだったら、世界一周旅行でもしたいと真剣に思う。
兄たちが結婚したとき、いやそれよりももっと前から、ミチルの両親にはそのことをたびたび言い含めていた。
そんなお金があるんだったらわたしは旅行でもさせもらいたいと思っている、ということをだ。
そしてもちろん、五年間の付き合いの中で、田坂に対しても再三繰り返して言ってきたことだった。
ふたりの間で「結婚」が意識されてからも、ミチルにとってはそれは「いずれ田坂とわたしはひとつ同じ屋根の下で暮らすようになるんだな」という漠然とした決意が芽生えただけで、披露宴や結婚式のことはまるで頭になかった。
GWにミチルは田坂と一緒に帰省した。
秋になると、ミチルの両親が東京へ出てきた。
そんな風に、「結婚」への道をふたりでゆっくりと、しかし確実に進んでいるときだった。
いきなり、ほんとうにいきなり、田坂が聞いてきたのだ。
それも電話で。
「あんさあ、ミチルの方って招待客、どれくらいになるか、数えといてくんねえ?」
ミチルの頭は一瞬、真っ白になった。
次の瞬間、矢継早に田坂を質問攻めにする。
「招待客、てまるでわたしたち披露宴でもするみたいじゃん」
「披露宴はしない、てもうずっと前から言ってあるよね。田坂もそうだね、て言ったよね」
「だいたいどこでするの?披露宴って?」
田坂はほとほと参った、という感じだった。
「いやだからそれじゃあ俺んちの親が納得しねーんだよ、、、」
親っ?!
親が納得しないからって披露宴するの?
じゃあわたしはどうするの?わたしはどうやって納得すればいいの?
ミチルはやり場のない怒りにどうしていいかわからなくなった。
わたしも「フツーのオンナノコ」みたいに披露宴をしてしまうんだろうか?
それはミチルにとっては自身の人格を否定されるくらいに屈辱的なことに思えた。
ミチルはその日を境に、「結婚すること」という巨大な問題と戦うことになった。
好きな人と一緒になるんだから、披露宴くらいなんでもない問題だ。
普通はそう考えるのだと思う。
ミチルにだってそんなことわかっていた。
それでもどうしても、イヤだったのだ。
ただのわがままだと言われれば、確かにそうかもしれないということも充分にわかっていた。
兄が結婚する時に言ったことばを思い出した。
「おいもこがんことしとうなかばい。ばってんね、披露宴ばせんってことはよ、つまりお互いの知り合いばひとりひとり訪ねて行って、この度この人と結婚しました、今後ともどうぞよろしくお願いします、てことば報告して回らんばいかんわけよ。おまえそげんことしきるや?想像してみろ。その人たちの一人残らず同じ街の、同じ住宅街に住んどらっせばよかばい。ばってんそげんわけなかやろもん。日本各地、あっちゃこっちゃ散らばって住んどらすとばい。そいば一軒一軒、訪ねて行っきるや?しきらんて。そげんことするくらいやったら披露宴ばして、知っとる人たちにある場所に同時に来てもろうて、ほれ、結婚しましたけん、て言う方がいっぺんで終わって楽かとって。結局金かてそのほうがかからんとって。」
兄の言うことはよくわかった。
確かにそうだろうなと納得もした。
結婚はふたりの問題ではなくて、家同士の問題ということは言われなくてもわかっていた。
それでも、、、それでもそれでも、、、
ミチルは日々、自分の力では到底あらがえない、目には見えないけれどとてつもない大きな力に押しつぶされそうで、言いようのない不安に包まれていくのだった。
その頃は毎晩、ミチルは実家の母親へ電話をかけて、結婚へ向けての進捗情報を報告していた。
と言っても要は、毎日積み重なる結婚へのストレスを母親へぶちまけていただけのことだ。
まあ結婚っちゅーたって、よかことより我慢せないけんことの方が多いくらいなんやから。
結婚はしょせんふたりだけの問題やあのうして、お互いの家を巻き込むことなんやから。
まあまあ田坂くん家は東京やし、おまけに長男やし、披露宴ばせんですますことはできらっさんとやろうさ。
あんたもそっぎゃーんまでして意地ばはらんと、もうここまできたら田坂くんのよかごとさせときなさい。
お金のことやったらなーんも心配せんでよかとやけん、向こうの言わす金額はちゃーんと出してやるけん。
ミチルの母親は、ミチルの言い分を充分に聞くと田坂のことも田坂のすることもけして否定するようなことは言わず、ひたすらにミチルをなだめることに徹していた。
そしてミチルは徐々に、田坂の言うとおりに動き始めていた。
それはつまり、披露宴会場を探す、ということだった。
週末のマンション探しに加わって、週日は仕事帰りに披露宴会場を探す、という毎日。
週末にはお昼過ぎまでベッドの中で過ごすことだけが楽しみだというミチルの日常は一変した。
普段より早起きして会社より遠くの駅まで出かけなければならないのだ。
喫茶店に入ってもワインくらい飲まなければやってらんねーって!というくらいにミチルのこころは疲労していた。
週日の何日かは、田坂は横須賀ふんだりからどうにか都合をつけて、ミチルの退社時間に合わせて都心まで出てくるようになった。
田坂がミチルの気に入りそうな会場をあれこれ物色しておき、ミチルと田坂が一緒に披露宴会場を訪ねてみる。
もともとミチルは「披露宴だけはしたくない」と言っていたのだから、どこへ行っても気に入るところなどなかった。
田坂は必死だった。
その日仕事の帰りにふたりで行ったのは赤坂のホテルの別館に建てられたところで、ミチルは初めておや?という気持ちになった。
どっしりとした木造りで、そこに入ったとたんになんだか落ち着くような感じがした。
「ここなら、いいかな」
ミチルは、初めて肯定的なことばを発したから、田坂はそれだけでもう、そこに決めてしまった。
ミチルには内緒で、早々に内金まで入れてしまったのだった。
今日もミチルは母親に電話をしていた。
その日、ミチルは赤坂のホテルにいた。
三十分くらい、母親と話しただろうか。
電話を切ると、隣でその会話を聞いていたアレックスが、
「(キミは日本語を話すときもとてもおだやかに話すんだね)」
と言った。