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映画『グレート・インディアン・キッチン』への2つの違和感

はじめに

昨日も書いた通り、1月21日に日本の映画館で公開されたマラヤーラム(ケーララ)映画『 #グレートインディアンキッチン 』を昨日観てきたので、今日はその感想を書いていこうと思う。

この先、基本的にネタバレになるので、先に告知系しちゃうね‼️

今夜20:00〜 #Clubhouse#インドの衝撃 ( #インド大学 )にて、インドでも飛んでるLCCエアアジアの話をします。

明日からnoteでも準拠した記事を書くのでお楽しみに‼️

Clubhouseでは2月7日月曜20:00〜「インドの山岳鉄道🚞」、

3月1日火曜日20:00〜「インネパ🇮🇳🇳🇵」について話すことも決まってますので、そちらもヨロタム(旅行業界用語)

あと今夜21:00〜、twitterのスペースで『グレート・インディアン・キッチン』についてやるらしいんで、Clubhouseが終わり次第ジョインするかも。

それでは早速、『グレート・インディアン・キッチン』の感想を綴っていくよ‼️

ケーララという風土

この映画の舞台はインド最南西部 #ケーララ州 が舞台で、当地の言語 #マラヤーラム語 が使われている(一部英語)。

#インド映画 が好きな人には当たり前の話かもしれないけど、この映画は普段インド映画を観ない人からも注目を浴びているので説明しておくと、

北インドではヒンディー語映画が圧倒的で、少数のマラーティー語(マハラーシュトラ州)、ベンガル語(ウエスト=ベンガル州)の映画があるような感じだけれども、南インドではマラヤーラム語のほか、タミル語(タミル=ナードゥ州)、テルグ語(アーンドラ=プラーデシュ州、テランガーナ州)、カンナダ語(カルナータカ州)それぞれの映画が制作されている。

だから全米は簡単に泣くけど、全印は泣かない。

他の言語圏に「輸出」する時は英語字幕を付けることになり、これでやっと全印が泣ける。

ネットコンテンツが主流になってきた今は最初から英語字幕を付けて、全印どころか全世界に向けて発信することも多くなってきているようだけど、基本は言語圏のなかのローカル文化なのね。

だから『グレート・インディアン・キッチン』にしたところで、基本 #ケーララ の人が観ることしか考えておらず、そのケーララのなかでもスター俳優を全然使わない低予算映画だった。

それがあれよあれよと話題になって、英語字幕を経て、日本語字幕まで付いて日本の映画館で上映されるに至ったという次第。

『グレート・インディアン・キッチン』のなかでは明らかにヒンドゥー教徒なのに牛肉を食べるシーンが出てきて面食らった人もいると思う。

ケーララではヒンドゥー教徒が牛肉を食べるんだけど、それが何故なのかはインド人に聞いても明確な答えは返ってこない。

個人の仮説としてはヒンドゥー教徒が牛肉を食べないというのはイスラームの豚肉に対抗しての後付けだからじゃないかと思っている。ケーララはムガール帝国の支配を受けていない。

東京浅草のサウス=パークをはじめケーララのヒンドゥー教徒がやってるお店では牛肉が出てくるので、機会があれば是非食べてみてほしい。

チェ=ゲバラの絵が映るシーンがあるんだけど、あれもケーララならではの光景。

ケーララ州は共産党が度々政権を握っていて、共産主義者を自認する人も多い。それでゲバラの絵が結構色んなところにある。ちなみにインドは連邦制で州の権限は強い。

なおゲバラの絵は単に映り込んだのではなく、意味があって映している。

南インドの中でも異彩を放つケーララという風土を少しでも知ってるかどうかで、この映画から見えてくるものも変わるだろうなと思った次第。

第一の違和感と自己嫌悪

ひとまず『グレート・インディアン・キッチン』がどういう話なのかというのを、公式サイトのあらすじから引っ張ってみる。

妻が家事から解放されるのは、 自身が「穢れ」となる日だけだった。 インド南西部ケーララ州で、高位カーストの男女がお見合いで結婚する。中東育ちでモダンな生活様式に馴染んだ妻は、夫の住む由緒ある邸宅に入り、姑に導かれて家事のあれこれを学んでいくが、ほどなく姑は嫁いだ娘の出産準備のため家を離れる。彼女は一人で家事全般を受け持つことになる。さらに、早朝からの家事労働で消耗していても、夜には夫の求める身勝手なセックスを拒むことができない。そうした重荷から逃れられるのは、皮肉にも生理の期間だけ。しかしそれは、彼女が穢れた存在と見なされる数日間でもあった。

夫だけでなく舅も相当曲者だと思うんけど、あらすじからは省かれてる。

やれミキサーを使うな、やれ服が傷むから洗濯機を使わず手洗いしろ、妻が仕事がしたいと言い出すと「うちに合わない」と切り捨てるなど、この人がいなくなるだけでも大きく負担は減ると思う。

自分の父方の祖母は県庁所在地から漁師町に嫁ぐんだけど、当時県庁所在地には電気が通っていて、漁師町はそうではなかった。それで「竃で米も炊けないのか」と罵られたというけど、ホントそんな世界。

兎に角、夫と舅は一切の家事をせず、「我が家のルール」をひたすら押し付けてくる。

でもこれよくある話、というかインドは未だにこういうストーリーが描かれるの❓っていう違和感を持った。

日本でも90年代まではこういう話描かれてた気がするけど、今はむしろDVとか不倫とか家庭崩壊を描いた話の方が圧倒的に多くて、それがいいというわけでは全くないんだけど2021年制作とは思えない「時代劇」のような光景にのめり込まないでいた。

しかし、この光景をしばらく観ていて湧き上がってくるのは、終わった話のように思っている自分こそおかしいんじゃないかと。

例えばサザエさんやちびまる子ちゃんの家庭も男は家事をまったくしない。ああいう家族像が当たり前のように描かれていることに自分は以前から好意を持たなかったけれど、少なくても放送休止に追い込まれるような苦情は来ていない。

この映画の妻が磯野家やさくら家に嫁いだら、結果としては同じだった可能性もある。

結婚生活の経験はないけれど、いままでそれなりに近しくなった女性、あるいは母親にどういう態度で自分は接してきたんだろう、と考え出すと、この話を当初「時代劇」と決めつけた自分に嫌気が差す。

この映画を観るのは女性が大半だと思うけど、是非男性に観てほしいと思う。せめて配管工は呼んで、食べかすは皿に集めよう、くらいの歩み寄りは必要だって感じるはずだ。

歩み寄り、これは次の違和感のキーワードでもある。

第二の違和感、加速する断絶

ストーリーのターニングポイントはレストランと「巡礼の誓い」。

レストランの件で夫が巡礼を決めたのかどうかは何とも言えないけれど、反撃と逆反撃という意味で対になっている。

その後の展開は一気におどろおどろしくなり、結末まで駆け抜けるのだけど、妻が生き甲斐を取り戻せて良かったと思う人が多いんだろうか。

自分は後味の悪さの方が大きかった。

何故かというと、この映画の登場人物には全員対話がない。自身の価値観のなかだけを泳ぎ、異なる者と混ざり合うことがない。

唯一その可能性を感じたのは姑かな。

個人、宗教、政治の問題がオーヴァーラップしていく描写は見事としか言いようがないんだけど、価値観の断絶がどんどん加速していく様が観ていてどうにもつらかった。

この描写の演出のひとつとしてゲバラの絵が出てくるわけだ。

これは現代のインドそのものなのだろう。

もちろん現実にはマハトマ=ガンディーがそうであったように、分断を憂い対話の可能性を苦悩する人がたくさんいるはずで、ここまで誰もが歩み寄りを見せないのはフィクションのはず。

だからこそせめて配管工くらいその場で呼ぼうよ、ということかな。汚水を浴びてからじゃ遅いんだよ。

おわりに

「グレート・インディアン・キッチン」というタイトルからインドの食文化を巡る話だと思う人も、もしかしたらいるかもしれないけど、

実際日本では見たこともない調理器具がたくさん出てきて、特に南インド料理を作るのが好きな人にもオススメかも。

アフィリエイトゼロだけど、このサイトで探してみてね。

映画の原題は「The Grate Indian Kitchen」。

この「The」が重要だと思うんだけどな。



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