オールドデリー、実は新しい
こんばんナマステ💚Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️
13日に起きた洪水でデリーがやられているけれど、
水没してるのは基本的にオールドデリーとその北の方なんだよね。
したがってビジネス渡航などにはそんなに問題がない。
それがなんでなのか。
なんとかのひとつ覚えみたいにクトゥブミナールとフマーユーン廟とラールキラーにしか連れて行かない、この3箇所のプロフェッショナル中のプロフェッショナルである日本の大手旅行会社のインド担当者なら答えられるはずだよね❓
クトゥブミナールは1200年頃、デリースルターン朝最初の王朝であるマムルーク朝の建国者アイバクが建てたもので、デリーのなかでは南端、インディラ=ガーンディー国際空港に近いところにある。
フマーユーン廟は1565年、1556年に没したムガール帝国第2代皇帝にしてライバルのスール朝からデリーを奪還したフマーユーンの墓で、ニューデリー地区の南部にある。
そしてラールキラーは1648年、ムガール帝国第5代皇帝シャージャハーンがオールドデリーのなかに建てたもので、もっといえばオールドデリー全体がシャージャハーンがアーグラーから遷都して造営したシャージャハナバード(シャージャハーンの都)。
つまり時代とともに北へ北へ都市が動いていることがわかる。
なお、このあと英国が入ってくるとシャージャハナバードの南に街を造ってニューデリーとなり、対してシャージャハナバードがオールドデリーとなった。
ニューデリーの南側、何にもないところは空港が造られ、デリーの街が拡大するにあたってニューデリーと空港の間、南デリーがハイソサエティな人が住む地域になっている。
では何故デリースルターン朝は南の方に拠点を置いたのか。
デリーって基本的に湿地帯なのね。
南の方が水はけがよく、17世紀になってやっとそんな場所に都市が造営できたんだな。
17世紀前半といえば徳川家康から秀忠、家光の治世で、利根川と江戸川をくっつけるなど江戸の大規模な治水を敢行した。それと同時代のことだと思えばイメージつきやすいでしょ。
オールドデリーっていうのは英国基準で「古い」のであってデリーの歴史からすれば「新しい」。
そしてそれは人が住みつかなかったほど良くない地形ということでもあり、こういう時にそれが出てしまうんだな。
デリーの都市は拡大し続けているけど、グルグラム、ファリダバード、ノイダと明らかに南に向かって拡大が偏っている。ノイダの更に南の郊外に新空港が間もなく開港する予定。
これって結局、湿地より砂漠の方が都市化しやすいってことなんだろうね。
地球温暖化の影響だと思われるけど、インドの雨季も年々激しくなっており、今後もデリー北部は水害との闘いを強いられそう。
雨季はオールドデリーやヤムナー川沿いのラージガートを旅程に加えない方がいいんじゃないかなぁ。
大手旅行会社さんはクトゥブミナールとフマーユーン廟が世界遺産になる前の定番だった大統領官邸と国会議事堂の外観見学にでも戻すのかい❓
デリーの他の場所知らないんだから🤣
それじゃあバイバイナマステ💚暑寒煮切でしたっ✨