コロナ下半期の始まりに向けて。
コロナは、私の日常にあった他者とか、ありふれているもので見逃してきた小さな幸せや、大切なように見えてそうでないものと向き合わせてくれた。
自粛期間やステイホーム期間になり、私は、実家とアルバイト先と、コミュニティガーデンと
近所の山が行動範囲になった。会う人も限られた。
いったいこの行動の制限はいつまで続くか分からないけど、もしかしたら1年後もこの生活に
なっているのだとしたら、うんざりだ。
きちんと見てこなかったものといえば、やっぱり愛する友人たちとの会話や冗談や、昼寝の時間がどれくらい幸せだったかということだろう。そして、私自身が「他人」に生かされ、その存在に頼り切って生きていることも実感した。やる気がでないレポートも、「レポートやりたくない」「ねー、私テーマも決まってないだけど」という会話だけで、なぜかレポートをやる気になっていることもある。
そういう、私と相手にしか分からない、励ましみたいな繋がりがオンラインでは消え去ってしまう。胸から溢れ出るような感動や、涙が出るくらい悲しいことも、なんでこんなになっちゃうのっていう怒りも、オンラインだと伝わらないし伝えにくい。もし、この自粛生活が続いたら、この繋がりは必要でないとされてしまうのかもしれない。いつものあそこで待ってるよ、とか、先に講義室に行って席取っておくよ!みたいなこともなくなり、大切に育んだ価値体系がなくなるのかもしれない。そう思うと悲しく、だからこそ、その価値を無くさぬよう、その感覚を鈍らせないように、日々、根っこを張らないといけないと思う。
他者に生かされる、ということと、他人に生かされるということは別物だということも
コロナが気づかせてくれた。
なかなか人に自分の弱い部分やできないことを見せるのが苦手な私は、時々、この世界の全てが「自分の存在に無関心だ」と思うこともある。けれど、自然と付き合っていると、そんなことを忘れてしまう。ミミズや微生物が肥やした土と、水と太陽が、野菜を育てる。その野菜を私が食べる。排泄物が肥料として土に還る。こんな大きな生態系の循環の中で生きている。
人と人はささいな意見の誤理解や伝え方の違いで、連絡を取らなくなる。恋人も、今日は中華料理の気分なのに、なんでイタリアンなの、とかいう歩み寄りの足りなさで別れ、遠い人になる。
でも、生態系は互いの理解や歩み寄りによって廻っている気がしている。土はほっておくと、酸性の雨に打たれ酸性になってしまう。だから農家は薪の灰を畑にまく。
そして、土は中和し、野菜はぐんぐん育つ。そんなに簡単ではないけれど。
人間の「経済成長」のもとに、気候変動は起きて、生態系は変化している。だからこそ、この自然の現状に対して私たち人間は自然を理解し、自然に歩み寄っていく暮らしに転換しなければならないのだと思う。そんな暮らしを少しずつ実践していくと、例え、人から批判されようと、友達と離れ離れになろうと、大きな大きな生態系の中の繋がりの中での自分の存在が「他者」と繋がっていることに気づくことができた。
そんなことを考えながら、パソコンに向き合っていると、友人から、おススメの本リストが
ラインで送られてきた。頼んでいたリストで、通知が来た瞬間に確認した。今度図書館で借りてみる事にする。私は国内旅行に行くと必ずその地域の古本屋に行く癖がある。お土産というと、そこで買った「運命の本」である。東京に住む友人は私の小さいリュックを持つと「何が入っているの」と笑ってくれる。正直、行きと帰りで5倍くらい重さが違うこともあり、肩こりの原因なっている。
こんな風に集めた本たちは、読み返すものと、一回読んでブックリストに感想を書き込んで終わる本がある。いろいろなものがあるけれど、やっぱり「運命の本」であることに変わりはない。
最近は、本が多すぎることもあり、友人にプレゼントしている。私が相手に読んでほしい本、関心がありそうな本を贈っている。
これから、ものや人との関係に「マイナス」をしていくことが世界のトレンドになっていくとしたのなら、私の部屋に置いてある大切なように見えて、そうではないような3年くらい使っていないジェンガや、最近着ていないシャツも、次にバトンを渡すのか、それとも手放すのかを考えなければならないと思う。
今日もまた山に。
7時30分、リュックに荷物を詰め込み、人が詰め込まれた電車に久しぶりに乗る。普段は基本的に自転車や徒歩移動なので、通勤時間のこの人の多さに朝から疲弊する。
電車に揺られ、友人と山に向かい、脚立に乗って選定をしている主に「おはようございます」と叫ぶ。「おーきたかー」と今日もまた、この時間が始まる。人数分用意してくれている地下足袋と、手袋を見ると、こういう小さなもてなしがここの魅力であるのだなと感じる。
作業をしていると、通り雨が降ってきた。休憩休憩、ぼちぼち、やりましょう。
受容策のある未来を。
コロナ下半期は、もっと、もっと、「他者」との間のよくわからない壁とか、ヨロイとかを外していきたい。
議論されてないまま続いている「こうしなきゃいけない」を混沌を通して「こうだったら受け入れられる」という「受容策」を。