「 これは私の強みだと思う。独り占めしないためにここに残しておきます。 」

他人と私。 
違うんだけどほとんど変わらない。

でも、やっぱり私は私。

私の強みがある。必死に育んだものがある。
それの持ちうる価値は己では測れないけど、ここに残すことで誰かを少しだけでも楽にできたら良いな、と祈りながら。




24歳の時、児童養護施設で少し勤めていた経歴がある。

様々な事情を抱えた少女たちの日々の様子を見守り、食事を用意し、会話をした。

中学時代。 高校時代。 大学時代。
私自身、思い出すのも心苦しい、そんな辛い日々を過ごしてきた。

体が重く動けず、 部屋から出られない。
学校へ時間通り行けない。 普通の生活ができない。
しっかり者な母とはいつも対立して泣き叫び、暴れた。 壁にも穴を開けました。

学校へ行けず、朝家を出てから制服から私服に着替えて本屋さんや図書館へ行った。 カフェでぼーっとしていた。


家族にも恵まれていた。 友人にも恵まれていた。 何も不自由なかった。
豊かな条件はばっちり揃っていたはずなのだ。
側から見たらどちらかというと華やかな恵まれた存在であったと思う。

それなのにどうしてあれほど苦しかったのか。
息苦しかったのか。

その理由は正直、今でもわからない。

辛くて苦しくて、その頃の記憶はもはやほとんど残っていない。辛すぎると耐えきれず、 記憶は姿を消してしまうのだと思う。

施設の子達は、それぞれに警察や病院、 福祉が介入するような問題を抱えていた。
想像を絶する驚くような出来事も沢山あったのだけど、私はいつも他人事に思えなかった。

何か一つ小さな歯車がずれていたら、 私はそちら側にいただろう、と。

警察や病院や福祉が必要な子だと振り分けられていただろう、と。

辛かったあの頃の自分と彼女達の姿があまりにも重なりすぎていつも私の心は痛んだ。
その差はほとんど無い。



「己の持つ才能に気づく必要がある。
その才能を育てる必要がある。
そしてそれを正しく使い、その恩恵を他者と分け合う権利がある。」

キリスト教ではこんな素敵な考え方が一般的だそうだ、
「(才能など)貰った恩恵の所有物は神である。その恩恵は自分で独占するのではなく、隣人に返していくべきだ。成功したひと、富を持っている人間は、 自分の力で得たものでは無いら、神からの恩恵は隣人に返すのは当たり前で、見返りを求めてはいけない。 自分の持っているもので余っているものは人にあげる。 じぶんが欲しいものがあったら、遠慮しないで貰う。 (死の言葉\佐藤優)」

私の好きな考え方だ。


まず、その才能に気づくことも難しかったりする。

施設の彼女と私はほとんど同じなのだけど、 やっぱり違う。
私はこの施設に勤めることで自分の持つ強さのようなものに気づかさてもらった。

それは環境や生い立ち、 運などの力も借りて得られた恩恵なのだけど、
辛さから抜け出すことができた、 絶望から這い上がることができた、ということだ。


秀でた部分を知るには、 他人とともに過す必要がある。
他者と並ぶということは、自分の欠けを知ることと重なる。

今の時代は、比べること、 順位をつけることを良しとしないそうだ。そのあり方は悔しさを生まないが、己れの強みを知る機会を奪っていく。

また、他者と群れすぎても己れの秀でた部分をしることもできない。
悲しいことに出る杭は打たれる、変わり者は省かれる。

逆に打たれてしまって、省かれてしまった方が道は開けれやすいかもしれない、なんて思う。

本当に危ないのは、本当は出たいのだけど、 本当の自分はこうではないのだけど、 そんなことをしたら打たれること省かれることに気がつき、 それに怯え、息をひそめることができる人々なのだと思う。


私は、必死に普通に擬態しようと息を潜めていたのだけど、ふと気づくとにょきっと出てしまう抗だったと思う。

私が恵まれていたのは、不揃いの杭を許し見守ってくれる環境に身を置くことができていたということだ。
これは私の成果ではなく、幸運だとしか言いようがない。 本当に感謝している。

辛かったが、恵まれた環境のおかげで私の戦いは、いつも己の中にあった。
出たくないのに出てしまう杭。
出たいのにそれを必死に抑え込むという苦しさ。

一見静止しているように見えると思うが、 私の中で強い力がせめぎ合い、 本当の自分は消耗されされていった。

その過程は簡単に説明できない。
ある日突然閃いたのかもしれない、 徐々に開かれていったのかもしれない。
でも、私は擬態するということをやめた。
諦めた、という表現が近いのかもしれない。

本当にあと一歩進んでしまっていたらそこには死があった。
死んでしまうのなら、 それなら一旦擬態することをやめてからにしよう、と。

この塩梅は本当に人それぞれだと思う。

私は学校に行ける、
仕事をできる、
生活をこなしていけている
そんな「普通」を「普通」にこなせる人、(彼らにもそれぞれの苦しみや葛藤があるのはよくしっています)

また反して他を、 普通を、 擬態を全く気にしない人、 そんな人々に憧れる。

色がはっきりしている人々。


その間に散らばる人々に思いを馳せる。

私はものすごいエネルギーを消費したらどうにかこうにか騙し騙し擬態できるものの、はみ出してしまうタイプだった。
はみ出していることに気付きながらもなすすべなく途方にくれるしかないタイプだ。
いつしか、擬態にエネルギーをつかうことをやめてしまった。
やめなくては命が危なかった。
命がけで擬態していた。

きっと側から見たら擬態なんかできていなかったと思うのはだけど。

命がけとは言わずとも、必死に擬態している人は沢山いるのではないだろうか。

その維持にエネルギーをつかうことをやめたとき、その人らしい輝きが放たれるのではないだろうか。
なによりも生きることがこんなにも楽だったか、と驚く。
足取りが軽やかになる。

未だに人生を歩むこれの足取りが錘のようにズンと重くなっているとはたと気づくことがある。

まだそれならいいのだが、急に躓いたり、ぶつかったり、思うように進めないとき足元を見るとがんじがらめになっているのだ。

自分で手放して、 自分で縛って、それを私は何度繰り返すのだろうか。

でも、まず軽さを知っているという心強さ。
手放す術を心得ているという安心感。

私は、 だいじょうぶ、と思えている。

それは私にとっては逞しい変化であり、 掴み取った武器なのである。

今の私が頭を悩ませているのはパートナーとの関係。

厄介なこれの躾がやっとわかってきた、でも変えることのできない他者との共存の難しさ。 本当に

難しい。

手放してしまえば、 楽なのだけれど、それでいいのだろうか。

今は多様化の時代。 多くの選択が許されるようになってきている。

どんなことも多くの選択肢からお気に入りの一個を選ぶことができる。

ほとんどのことは自分の好きなように選べる。

そんななか、引き受けざるおえない、という経験が本当に乏しくなっている。

その経験のもたらす恩恵を感じてみたい、 とも思ってしまう。

ましてや基盤としては自分で選んだ好きな人である。

時を長くすると、 好きではない部分もそりゃあ現れてくる。 気にくわないから手放してもいいのだ

けど、それと折り合うことは今の時代大きな学びをもたらしてくれるのではないか。

なんて、偉そうに言っているのでけど、 正直面倒だし、怖いし、疲れる。

でも、明日彼にあって話そうと思う。

大抵のことは自分でどうにでもできるこの時代に、どうにもできない、全てを知り得ぬことに挑み

たい。 無力の自分と向き合いたい。

それはどんな意味があるのか。 そんなことを考える。

まだそう思えるくらい彼のことが好きなのだと思う。

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