「 「怪しい」を拭いきることができるだろうか 」

宗教について、「怪しい」「胡散臭い」という思いがどうしても消えない。
弱さ、貧しさ、愚かさに付きまとうようにして現れ、漬け込んでいるのではないか?とどうしても思ってしまうのである。
思考のあるじとして、なかったことにはしたくないから、ちゃんと向き合っていこうという心意気。

現代社会は基本的にどんな人も行動次第働きかけ次第で挑戦の機会が与えられている。
しがらみ、古い枷や枠から次々に解き放たれている。
なんだってできる、そんな社会。

「自分にはどうしようもできない」にぶつかることがほとんどなくなってきている。
自然の脅威に対しても、ある程度の予測の機能や回避の術を得られている。
自由だ。

だからこそ「宗教」というものが解体されつつあるのだろうか?
宗教の始まりは「自分ではどうしようもできない」未知と折り合う術として生じたのだから。

なんだってできる自由な身であることが絶対条件になった今、無限の可能性を秘めているからこそ、全て競いあう形になり、上へ上へ!、頑張れ頑張れ!が当たり前のように強いられる世の中だ。
自由なのだから、無限大なのだから、広がること、伸びていくことにとても自然と促される。

まさに資本主義。

さらに「他人」の姿が見えやすくなっている。「他」を意識すると自然と競い合う形になるのではないか。比較をせずにはいられない愚かさ。
そして、それが、曖昧で、飾り立てられ、加工された「嘘」の姿だということをしばしば忘れてしまうのだ。

どんな社会になろうと、少なからず今の社会においては「自分にはどうしようもできない」ものは昔と比べ格段に減ってはいるものの、完全に消滅はしていない。
ただ、普段はないと錯覚してしまうほどにその存在が減っているからこそ、いざそういうものに出会ったとき、耐性がついていないからこそ、強い衝撃を受け、立ち向かう強さを備えられていないのだ。
消滅していないからこそ同時に「宗教」もなくなることもないのかもしれない。

基本のベースが「なんでも自分次第でどうにでもなる」という思考だからこそ、とても安全な守られた環境に身を置いているからこそ、
多くは現世を生きることに十分に自信をもち、現世を十分に享楽できるようになってきている。
あえて祈ったり、不確実な「極楽」や「天国」を持ち出す必要がなくなっているのだ。
人間の生をこの世かぎりのこととし、有限の人生を享楽したいという欲求が強くなっているのかもしれない。

様々な技術の発展によって「自分の思い通りになる」というイメージがどんどん強化されている。
今までは、ほとんどのことが未知で不透明であり「思い通りにいかない」が前提だった。だからこそ、祈り、生まれ変わりに思いを馳せ、どうにか折り合いをつけて生きていたのだ。

人生も村や集落、狭く小さなコミュニティの中のみで成り立ち、1人一人の役目も自然にきまっていったため、取り立てて人生の目標を考える必要も負かった。
対して現代社会は広い社会を自らの選択によって生きてゆかねばならなくなった。ごく自然に手元にあった「生きがい」も改めて自分自身の手で作りださなければならなくなった。
さらに価値観の多様化によって、選択肢は増え続けている。

自分は何のために生まれてきたのか、人生の意味を模索する機会が増えるが、人生を深く「納得」できる答えはそう簡単には得られない。
ニヒリズムに陥ることもごく自然なことなのかもしれない。

昔は「納得」できていた宗教が与えてくれていた答えにズレを見つけるようになり、深い「納得」の対象からは遠ざかっているのかもしれない。

納得できる答えを宗教は教えてくれなくなっている。

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