『ビースターズ』を読んで。
『ビースターズ』を一気読みした。
全ての動物たちが擬人化(人体化した訳ではなく、人間のように二足歩行と自由な両手を持って、社会を営んで生活している)して共生している世界。動物たちの特性を残したまま擬人化しているのが秀逸な設定だ。肉食動物は肉食動物として、草食動物は草食動物として、それぞれの特性を残したまま、同じ社会で果たして一緒に暮らしていけるのか?という作品だ。
『ビースターズ』を一気読みして『ズートピア』がもう一回観たくなったので、観た。こちらも色んな動物が擬人化した世界の物語だ。こちらも同様に動物の特性を残して擬人化されており、共生がテーマなのも同様だ。
肉食動物は草食動物を食べる。自然の、本来の姿だ。つまり肉食動物は草食動物よりも物理的に強い。しかし、肉食動物が草食動物を食い尽くして草食動物がいなくなってしまうと食べるものがなくなり、肉食動物も死に絶えてしまう。そのために草食動物は肉食動物よりも数多く存在するように出来ている。これが自然の摂理、食物連鎖だ。それぞれの自然界におけるポジションというものがハッキリしている。
『ビースターズ』も『ズートピア』も動物たちを擬人化することによって、ポジションが明確だった動物たちの関係性を複雑化している。
例えば、多数決1つ取っても、肉食動物よりも草食動物の方が絶対的に数が多いので草食動物の方が優位となる。また、肉食動物がそれに反発して、少し興奮して語気を強く主張すると、内在する凶暴性の表れだと指摘される。すると肉食動物はパワハラを気にして発言を控えるようになる。このように力関係の逆転が起こったりもする。
その一方で暗闇に乗じて襲われたら草食動物はひとたまりもない。凶悪な事件が起きた際には草食動物は大きな不安を抱えながら生活しなければならず、また肉食動物も疑心暗鬼の目が自分に向かないように生活しなければならない。
このように動物を擬人化しただけで、社会における人々の関係性の複雑さを表せるのだから、本当によく出来た設定だと思う。
ただ、『ビースターズ』の方がより踏み込んだ描き方をしている。
その一つが“裏市”の存在だ。“裏市”とは草食動物との共生のために肉を食べることを禁止されている肉食動物が、欲望を晴らすために隠れて肉を食べることが出来る非合法な市場のことである。表向きは存在を認められていないが、草食動物もそうした場所があることは知っていて、個人差はあれどほとんどの肉食動物がそこで肉を食べている。欲望を抑えるためなので、一度や二度では済まず、定期的に行く者も多くいる。肉を食べたその身で、日常に戻れば草食動物の友人や同僚と普通に過ごすのだ。
『ズートピア』では肉食動物が何を食うのか、ここら辺の設定はボヤかされている。設定上の大きな旨みを逃しているようでもったいないなーと思う。
あともう一つは結婚の問題だ。
全ての動物が平等に暮らしている社会で、異種族同士が結婚したら、その子供はどうなるのか。
『ビースターズ』では物語のラスボスとしてガゼルとチーターのハーフ・メロンが登場するし、主人公のオオカミ・レゴシもコモドオオトカゲの血が4分の1入っていることが物語の後半で判明する。異種族同士の恋愛は禁止されないとはいえ、同種族同士で結婚して子供が生まれた場合には特別手当が発生し、ほとんどの人々は自分と同じ種族と結婚することを選択する。異種族同士の交際は、過度に怖がるのはダサいという若者のノリとして扱われ、その癖そういったカップルに限ってちょっとしたことで生死に関わる事故を招く。そのため、レゴシは恋人のウサギ・ハルと オオカミの自分はどうすればずっと一緒に暮らせるのかと悩み続けている。
『ズートピア』はメスのウサギ・ジュディとオスのキツネ・ニックが主人公だが、恋愛を描いた作品ではない。戦闘能力のない小柄なウサギが屈強な体躯の警察官たちの中で同じ警察官としてやっていける訳がないという偏見にさらされたジュディと、キツネは卑怯というイメージに踊らされイジメを受けた経験からマトモに生きるのが馬鹿らしくなったニックが、互いに影響を与え合って自分がやりたいことにまっすぐ向き合えるよう変化していく物語だ。ジュディとニックは相棒といった感じで明確な恋愛感情は描かれない。出てくるカップルも同種族しかいない。異種族カップルは存在するのか、いたとしたら子供は存在するのか、ということも描かれない。
やはりここも設定の大きな旨みを逃している。(と言ってもジュディとニックがくっつけとは思っていない。あくまでそういうカップルがいないのも変だな、という話)
そもそも、ジュディが晒されている偏見だが、ジュディが入るまでズートピア警察には巨体で戦闘に向いている種族しかいないが、ズートピアには多種多様な動物が生活しているのだから、それぞれの種族や居住区域に対応した警察官を広く募集すべきなのではないだろうか。リトル・ローデンシアには小さいサイズの警察官を配置した方が良さそうだし。ジュディの件は偏見はあれども、適材適所が上手くなされていないことも大きな要因である気がする。
『ズートピア』を観た流れで最近配信された『ズートピア+』も観た。その中で気になったのはトガリネズミのミスター・ビッグの話だ。ミスター・ビッグがどのようにしてマフィアのボスになったのかその半生が描かれる(トガリネズミの彼がシロクマたちを従えている理由もわかる)のだが、その中で“ズートピア”のエリアの一つである小さな動物たちの暮らす街、リトル・ローデンシアはミスター・ビッグが主導して作ったことが判明する。
何となく“ズートピア”は“すべての動物が平等に暮らせる街”という理念の元、作られた計画都市だと思っていたけれど、リトル・ローデンシアがマフィアの自治区街だとしたら、他のエリアも独自に自然発生して生まれた街、という可能性もあるのだろうか…。ツンドラタウンを冷やすエアコンの排熱を利用してサハラ・スクエアは作られているというし、『ズートピア』では5つのエリアしか出てこないが本来は12エリアあるらしいので、自然発生した街がツギハギに組み合わさって生まれた街とは考えにくいけども。何にせよ、12エリアの内の1エリアを一世代で築き上げたミスター・ビッグ凄すぎ。
『ズートピア』と似たようなテーマで作られた『マイ・エレメント』は水・土・風・火のエレメントが共生する作品(こちらは明確に恋愛がテーマ)で、エレメント・シティという街が舞台だ。エレメント・シティは元々は水が興した土地に土・風・火が順にやってきて、水が受け入れたことで出来上がった街となっている。元々は水が興した街なので、中心部は水たちが過ごしやすい機構になっていて、濡れることに抵抗がない土・風は気にも留めないが、火にとっては命の危険もある程に暮らしにくいものとなっている。また火たちが暮らすファイアタウンは街の外れに位置していて、作為的でなくても水と火で立場に差が表れる街の作りとなっている。
“ズートピア”のリトル・ローレンシアにしても、ミスター・ビッグが作るまで小動物たちの限定居住エリアがなかったとしたら、小動物たちは知らぬ間に不便を強いられていたことになるし、専用の警官がいないことからも、やはり少々軽んじられているように思える。『SING』でマイクが食われてどうこう、みたいなネタがあったが、小動物関連の事件なんて隠蔽し放題だろう。丸飲みすれば文字通り何も残らないし…。
『ビースターズ』だと、性に関する生々しい表現だったり、友人の脚を食ったりなど過激な描写があるので、ディズニーである『ズートピア』にそこまでやれとは全然思わないけど、動物が人間みたいに活動していて可愛い♡だけで終わるともったいないと思う。
『ズートピア』はタイトルの通り“ズートピア”という都市の形態が判明するほど、その世界の複雑さが伝わってきて面白いので、早いとこ12エリアの全貌が見えてほしい。ぶっちゃけジュディとニックが主役でなくても『ズートピア』は成立すると思う。“ズートピア”という街が主役なのだ。
キャラを深掘りするならクロウハウザーが面白いと思う。ヒョウなのに走れないぐらい太っている彼は“ズートピア”の光と影を体現しているとも言える。太ったヒョウ可愛い♡で終わるのはそれこそもったいない気がする。