少女舞闘綺伝 ジュウトハチ 小説版 第十二話
真田大輔が霧隠才華から隠形の手ほどきを受けた翌日。
放課後、大輔はいつもの如く才華から座学を受けていた。
今日使っているのは広いリビングダイニングの脇にある小部屋だ、交代で休憩室に、時には仮眠室として使っているらしい。
ベッドと机が置かれた以外には、あまり飾り気のない部屋だった。
今日は戦術の基礎理論、古代中世から近世に至るいくつかの戦いを参考に、戦場における基本的な戦術の諸々を何回かに分けて学んでゆく予定だ。
十勇士にしろ八犬士にしろ、少数精鋭による行動が基本だ、大輔がある程度まとまった人数の集団を指揮して戦うといった機会は現状、そうそうないとは思われるが、知識として身につけておいて損はない。
「……技術の発達により、兵士の主たる兵装が槍や剣から銃に変わっても、変わらないものがあります、人体の構造がそれです」
「人の体に、前と横と後ろがある以上、時代が変わっても、集団の規模が変わっても、正面、側面、背面は常に存在する……ということですね」
「その通り、正面が最も強く、側面は弱く、背面はさらに弱い、陣形や配置を工夫し、時には地形を利用することで弱点を補強することもできますが、完全に、とはいきません」
「そこで攻める側は、機動などの手段を用いて敵の側面や背面を突こうとする」
「そうです、例えば紀元前のカンナエの戦いでは――」
部屋のドアがノックされ、三好清海の声がした。
「お茶を入れました、少し休憩されてはどうですか?」
才華が小さく息をつき、時計を見た。
「確かに、一息入れる頃合いですね……」
ドアの方へと向き直り、声をかける。
「ありがとう、入ってくれ」
ドアが開き、茶器や菓子皿を乗せたトレーを持った清海が入ってくる。
戦術論に夢中になっていた大輔は、そこでようやく自分が強烈な尿意をこらえていたことを思い出した。
「すみません、ちょっとお手洗いに――」
手洗いを済ませた大輔に、ちょっとした悪戯心がわき起こった。
(隠形の術を試してみよう……)
歩法までは習っていなかったから、自己流の抜き足差し足だ、どうせある程度まで近づいたら、才華さんに気づかれるだろう、ちょっとした笑いのネタにはなるかな、そう思いながら大輔は半眼になり、精神を整える。
ゆっくりと、足音を殺して部屋へ近づく。
半開きのドアの向こうから、才華と清海の会話が漏れ聞こえてきた。
「……それで、どうだった?」
と、才華が問いかけた。
「はい、やはり大輔さんも、十年前に異常があったと……原因の分からない高熱が数日続いたことが……」
と、清海が答える。
「……やはりか」
「でもまだ、そうと決まったわけでは」
「……まだ可能性がある、という話に過ぎない、だが」
一息おいて才華は続ける。
「最悪の可能性に備えて、清海、お前も心構えはしておけ」
「……はい」
苦渋を滲ませた声で才華は言った。
「最悪の場合……除かねばならない、我々の手で、あの人を……真田……大輔を」
大輔の動きが凍りつく。
大輔はゆっくりと向きを変え、玄関へ向けて歩き出した。
「本当に、そうなさるおつもりですか?」
「……わからない、だが、最悪の場合において、他の者の手に掛けさせるくらいなら、いっそ私が、この手で」
清海は才華の肩に手を置き、言った。
「無理は、するものではありませんよ」
「無理にでも抑え込まねば、溢れそうなのだ!心が!」
珍しく感情を露にした声で才華は言った。
「出会ってまだほんの数日だというのに、ここまで心が惹かれていたとは」
「いっそ表に出してしまえば――」
「出してどうなる!相手は使えるべき主、歳もずっと下だ」
才華は両手で顔を覆い、小さな声で言った。
「清海、お前が羨ましい」
自分が大輔に対して抱いている好意を、楽天的な清海は己の強みと捉えていた、あけっぴろげにすることにも、なんの躊躇も屈託もない。
一方で才華は、それを己の弱みと捉えていた。持って生まれた性格の違いと言ってしまえばそれまでだが、この差は大きい。
「それに自分でもまだよく分かっていないのだ、この感情が本物か」
初代の真田幸村以来、主となる者たちは、十勇士の各々に対して大きな求心力を持ち続けて来た。一種のカリスマだ。才華は己の感情もそれに由来するものであり、恋愛の情と間違えているだけではないか、そう疑ってもいた。
清海は背中側から覆いかぶさるように才華を抱きしめた。
「大丈夫、なるようになるものです、何事も」
才華は大きく息を吸い、はき出す。
「すまない、取り乱した」
一呼吸の間に、才華は平静を取り戻していた。
その耳が、玄関での微かな音を捉えた。
「清海……!」
同じ音を、清海も捉えていた。
大柄な体躯に見合わない素早い動きで部屋を飛び出す。
玄関へ向かった清海は大輔の靴を確かめた。
「靴がありません!」
才華は洗面所とトイレを確認する。
「こちらにもいない!」
才華と清海、二人は素早く靴を履き、マンションの通路をエントランス目指して駆ける。
駆けながら才華が言った。
「会話を、聴いてしまったのか」
「かもしれません」
二人はエントランスを出て、マンションに面した通りへと駆け出す。
何の言葉も交わさず、才華は右へ、清海は左へと二手に分かれて走り出した。
マンションの前の通りを右へ向かえば大通りに出る。そこから最寄りの駅までは最短のコースだ。才華はそのコースを駅へ向かって駆けた。
程なくして駅前についたが、途中に大輔の姿は無かった。
(おかしい……最短で駅へ向かうコースなら、とうに追いついているはず……)
一瞬の間に素早く思考を巡らせる、そして、ある可能性に思い当たった。
「しまった!」
才華は、元来た方向へと駆け出した。
才華がマンションの前まで戻ると、清海も戻ってきていた。
「この通りをまっすぐ走って探してみましたが、見当たりませんでした、そこで思い当たったのですが」
「そうだ、玄関のドアが閉じる音を聞いて、私たちは大輔様が既に外へ出たものと勘違いした、あの時はまだ、中にいたのだ」
清海がうなづき、言葉を続ける。
「玄関のドアを大きく開いて、靴を手に持ち、別の部屋に隠れる、ドアクローザーの働きで、ドアはゆっくりと閉まり、音を立てる」
「そうだ、あのとき普通に玄関を出ていたのなら、我々の足で追いつけないわけがない、出し抜かれたのだ、私たちは」
スマートフォンを取り出しつつ、清海は言った。
「伊三ちゃんを呼びます」
「頼む、私は八犬士に連絡を」
夕暮れ時にぽつりぽつりと降り出した雨は、完全に日が落ちる頃には本降りとなった。
マンションを飛び出し、自分の家にも帰らず、大輔は適当にバスを乗り継いで、いつしか澁谷の街へとやってきていた。
大輔は傘もささず、全身濡れるにまかせたまま、ふらふらと当て所なく歩いた。
晩秋の雨が大輔の全身から熱を奪っていった。
(疲れたな)
足を動かすのも面倒になり、道端へと座り込む。
何もかもが億劫に感じられた。
大輔の前で誰かの足が止まった。高いヒールのついた女性用のブーツだ。
「¡Ey!」
声をかけられ、大輔は顔を上げた。
濃いサングラス、ウェーブのかかった豊かな黒髪、浅黒い肌、ラテンアメリカ系の人かな、と大輔は思った。
「Está empapado, ¿no? ¿Qué estás haciendo? ¿Estás sola?」(びしょ濡れじゃないか。何してるんだい?一人なのかい?)
ひどく早口でまくしたてられ、何語かもよくわからない、わずかに聞き取れた部分の語感を頼りに、大輔は聞いてみることにした。
「えーと、¿Qué hora es?(今何時ですか?)」
女は反射的に腕時計に目をやるが、思い直し、聞き返す。
「¿De qué estás hablando? ¿Estás bien?(何言ってるんだい?大丈夫かい?)」
「あー、はは、スペイン語、わかりません」
視界が霞んでいく。
全てが闇となった。
(柔らかい……)
最初の印象はそれだった。
温かく、柔らかいなにかに顔を埋め、ひどく幸せな気持ちだった。
(……けと、今いったいどういう状況なんだ……?)
鼻腔をくすぐるボディソープの匂い。
徐々に意識が戻ってくる。
大輔が目を覚ますと、そこは見知らぬベッドの上だった。
そして、自分が、見知らぬ女性の胸に、顔を埋めて眠っていたことに気付いた。
かなり大柄な女性だ。
互いに全裸というわけではなく、大輔はTシャツにトランクス、相手もおそらくはスポーツブラに、たぶん下もパンツを履いているようだ。
(清海さん……!?)
ゆっくりと顔を動かし、相手の顔を確かめる。
違う、日本人らしいが、全く見覚えのない顔だった。安らかな寝顔で、柔らかな寝息を立てている。歳の頃は20代前半と言ったところか。
声を出しつつ跳ね起きたいところだったが、必死にこらえた。
(落ち着け、落ち着いて思い出すんだ……)
そもそもどうしてこんな状況になっているのだ?
「……うーん」
女性が寝言めいた唸り声を出し、大輔をぎゅっと抱きしめる。
(清海さんのハグとはまた違うけど、これはこれで悪くないな……って、いやいやいや、そうじゃだろ)
部屋のドアが開き、誰かが入って来た。
「¿Estás despierto? ¿Cómo estás?(起きてるかい? 具合はどうだい?)」
聞き覚えのある声だった。
(……そうだ!道端に座り込んでいたら、話しかけられて……)
大輔の脳裏に、徐々に記憶が戻ってくる。
「¡Piña! ¿Qué estás haciendo?(ピーニャ!何やってんだい?)」
大輔を抱きしめていた女性が、眠たげな声で応じる。
「んー?ああ、おはよー、トルベリーナ」
トルベリーナと呼ばれた女性は、話す言葉を日本語に切り替えて言った。
「何やってんのさ、あんた?着替えさせて、温かくしてやれとは言ったけど」
「いや、寒そうだったから、温めてやろうと思って……いつの間にか、一緒に寝ちゃってたみたい」
「してないだろうね、おかしなこと」
「やだなあ、そんなに飢えてないよ」
「お客さんは……起きてるかい?」
「あっ……ハイ……」
小さな声で大輔は答えた。
「コンディシォン……調子ばどう?熱は出てない?」
起き上がりつつ大輔は言う。
「大丈夫……みたいです」
「ふむ」
大輔の全身しげしげと観察すると、トルベリーナは言った。
「じゃ、朝メシにしよっか、アンタも付き合いな、ピーニャ」
「へいへい」
着ていた制服はクリーニング中だと言われ、代わりに着るようにと大輔に渡されたのは、新品のワイシャツとチノパンだった。
どちらもサイズはほぼぴったりだった。
着替えを終えるとスリッパを履き、部屋を出る。
ドアの脇には、先程まで一緒に寝ていた女性――ピーニャと呼ばれていた――が待っていた。大輔同様、着替えを済ませている。
ハードロック系のバンドのロゴが入った黒い長袖のTシャツに、ストレートのジーンズだ。肩まで届く長さの髪は、後ろに丸くまとめられていた。
「あの」
「ん?」
「ありがとうございました、何か、色々お世話になったみたいで――」
「ああ、あたしは体を拭いて着替えさせて温めてやっただけ、礼ならトルベリーナに言いなよ」
「トルベリーナ……あの人の名前ですか?」
「いや、呼び名っつーか、通り名っつーか、つむじ風のことをスペイン語でtorbellinoっつーんだけど、その女性形でトルベリーナ」
「つむじ風……」
「なんでも、小さい頃はヤンチャで落ち着きがなくて、それで父ちゃんにそう呼ばれてたんだって」
「あ、じゃあピーニャっていうのも」
「そ、あの人があたしに付けたあだ名、あたしは武藤松凛ってんだ、松の木の松に凛々しいの凛で松凛、piñaはスペイン語で松ぼっくりとかパイナップルの事だから……おっと」
松凛は腕時計を覗き込み、言った。
「トルベリーナを待たせちゃマズいな、歩きながら話そっか」
松凛と大輔、二人は広い廊下を並んで歩き出した。