少女舞闘綺伝 ジュウトハチ 小説版 第八話
伊三美達の闘いから、時は少し遡る。
犬塚信は真田家へ向かう途上にあった。
八犬士の本部は警視庁内にある。そこへ立ち寄り、連絡事項を取り交わした帰りだった。
メールその他の電気的な通信手段では、どうしても盗聴や傍受といったリスクをゼロにできないため、直接会って話す、結局のところ、これが一番確実な防諜対策だった。
駅近くの表通りを歩く信の前に一人の少年が立ち、話しかけてくる。
「僕はアルバ、コペル・アルバ、君と少し話がしたい」
普段ならば適当にあしらい、その場を去るところだったが、その少年に感じた不思議な印象が、信の足をその場に留めさせた。
おそらくはコーカソイド、年は見たところ信や大輔よりも二、三歳ほど上、身長は大輔よりも高く、すらりとした体型で足も長い、顔立ちは大輔よりも遥かに整っている、ようするに美少年というやつだ、少なくとも、見た目では似たところは一つもない。だが、なぜか大輔にひどくよく似た何かを感じた。
信は単刀直入に聞いてみることにした。
「あなたは……何か関係がある方なのですか?……大輔さんと」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるね、旧い知り合いではあるが、まだ会ったことはない……立ち話もなんだね、そこで話そう」
通りに面したカフェのテラス席、片隅のテーブルに、信とアルバと名乗る少年は向かい合って座った。
運ばれてきたオーガニック・ティーのカップを口に運び、軽く口を湿らせるとアルバは切り出した。
「率直に聞きたい、君の、真田大輔に対する感情について」
「私の……?」
「そうだ、正直なところ、君はどう思ってるんだい?あの男の事を」
「あの人で良かったと思っています、まだ頼りない所はありますが」
「ふふ、なるほど、では男としてはどう見てるんだい?」
「男として……?」
「そう、彼とは……大輔くんとは、もう寝たのかい?」
「寝た……?」
この人は何を言っているんだろう、と信は思った。ただ、こうして話しているのはひどく気持ちが良い、言葉を交わす毎に、頭の中にじんわりと痺れるような甘い感覚が広がっていく。
「ああ、どうやらまだのようだね、まあ良い、ここからが本題だ」
アルバが身を乗り出し、顔を近づけ囁く。
「真田……大輔君には、我々の同志になってもらいたいと考えている、勿論、君たち八犬士と十勇士の皆も含めて」
「同志に……」
ひどく魅力的に思える囁き、だがその時、信の左腕が熱を帯び、疼き出した。
(珠が……警告している!?)
信の頭の中の霧が晴れ、思考がはっきりとしてくる、何故自分は、この男と呑気に話などしているのか?
「あなたは……あなたが敵ですね、百八の魔星の首魁」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるね」
「普通の悪人であれば、珠の力は借りずとも感じ取れます、でもあなたは――」
信は固唾を呑みつつ続ける。
「それよりも遥かに邪悪、自らの邪悪さを、八犬士であるこの私にすらまったく気づかせないほど」
自らの邪悪さも、その実力も、まったく覚らせないだけの力を持った男、自分一人で敵うだろうか、そんな考えが信の頭をよぎる。
だが、この男をここで見逃すわけにはいかない、たとえどれほどの人目があっても、たとえ己が生命を賭すことになっても、倒さねば。
信にそう決意させるだけの邪悪が、この男の内部にある、そう珠が告げていた。
八犬士の一人としての使命感が信の心を燃やす。
その決意を行動に移すべく動き出そうとしたその瞬間、信のスマートフォンが振動した。
「怖いね、僕は逃げる事にするよ、それよりお仲間の所へ行ってあげた方が良いんじゃないかな」
信の意識が僅かにスマートフォンへと逸れた。
アルバの姿は、もうそこにはなかった。
「くっ……」
遅れてやってきた恐怖心、戦わずに済んだことへの安堵感、そして取り逃がした悔しさが信の中で大きな渦を巻く。全身から冷や汗が吹き出し、背筋を伝うのを感じる。
信は肺が空になるまで大きく息をはき出し、大きく息を吸い込み、そしてまた大きくはいた。
呼吸の間に信の中で荒れ狂う感情は消え、冷静さを取り戻していた、もはやここで為すべきことはない、ならば。
スマートフォンを取り、画面を確かめる。
(大輔さん……!)
テーブルに代金よりも少し多めの紙幣を叩きつけると、通りへと走り出した、一陣の風のように。
悲鳴とともに、リル・セブンが土中から飛び出した。
黒い火が燃えさかる右手を必死で叩き、地面を転げ回って消そうとするが、効果はない。いや、それどころか手首から肘、そして右肩まで炎は燃え広がる。
「セブン!」
「大丈夫か!」
残り二人も姿を現し、リル・セブンのもとへ駆け寄る。
「大丈夫だ……痛みは無い……熱さもそれほど……いや、皮膚も肉も焼けてない、無事だ」
立ち上がり、戦闘態勢を取る。
「虚仮威しだ、この火は……まだ戦える!」
「どうする?リル・ツー」
ファイブが問いかける。
「――続けよう、だがもし体に異変を感じたら――」
「すぐに知らせるよ、リル・ツー」
三人は再び姿を消した。
「あと少しだ、あと少しだけ防いでくれ」
犬山節が言った。
三好清海は決断した。
ジェーン・ドウの打たれ強さは、つまるところあのコートの下だ、あの下に秘密が隠されている、ならば――。
清海は鷹爪と呼ばれる手型を作った。
指を広げて軽く曲げた、心意六合拳では多用される手型だが、通常は指ではなく掌の部分で打つ。指を引っ掛けるような打ち方をすれば、普通の人間なら指を折りかねない。
だが、清海はあえてそうした。コートの前合わせを狙い、指先を引っ掛けるように打つ。金剛身で強化された指先ならば、折れる心配はない。
ジェーン・ドウのコートのボタンが弾け飛び、コートの下の身体が露わとなった。その下には――。
「あらら、けっこう高価いのよ、このコート」
コートに隠されていたジェーン・ドウの身体には、彼女の赤毛が隙間なく巻き付いていた。
「もう、必要ないわね」
ジェーン・ドウが素早くコートを脱ぎ捨てた。
彼女のほぼ全身に巻き付いていた長い赤毛が、うねうねと動きながら立ち上がり始める。
「今度はこちらが攻めさせてもらうわ」
蛇のように鎌首を上げた髪の、その一房が鋭く繰り出され、清海を襲う。
霧隠才華は持っていたバッグへと手を突っ込み、楔のような形状の何かを取り出した。それは才華が普段使う棒手裏剣よりも二回りほども大きかった。
気を静め、敵の声を待つ。
「こちらです」
声のした方向へ、楔を投げた。生きているものに当たった手応えはない。
才華は動じずに、バッグからまた同じ物を取り出した。
「こちらです」
再び声のした方向へ楔を投じる。が、やはり生きているものに当たった手応えはなかった。
「……面倒だな」
才華はバッグに手を入れると、三本ほどまとめて同じ楔を取り出した。手を一振りすると、三本が同時に、それぞれ異なる方向へ放射状に放たれる。さらにバッグの中から取り出して周囲へ投げることを四度繰り返す。
「……こんなところか」
十数本の楔を周囲へと放った才華は、両手で刀印を組むと目を閉じ、真言を唱えだす。
防戦一方であることに変わりはなかったが、伊三美には戦いながらも思考を巡らせる余裕が生まれていた。
節はどうやら二色の異なる炎を同時には使えないらしい、黄色い炎は周囲から全て消えていたが、それでも敵の攻撃を防ぐのに、先程までのような切羽詰まる感覚はなかった。
(あの黒い炎と、それで生まれる焦りだな)
姿を消すにしろ炎を操るにしろ、そして体を固くするにしろ、精神の集中による制御が必須だ、そして焦りは精神を乱し、制御を雑にする。
三人の襲撃者の内心に生じた焦りは、能力の精密な制御の妨げとなっただけではなく、攻撃のリズムやパターンまでも単調なものに変えていた。
そして唐突に終わりが訪れた。
姿を現した襲撃者の一人、片手に黒い炎が燃えているから、おそらくはリル・セブンと呼ばれていた女が、がくりと膝をつく。
「……ようやく効いたみてえだな」
節がつぶやく、その額には汗が浮いていた。
「セブン!」
残りの二人も姿を現し、膝をついてうなだれるリル・セブンに駆け寄る。
節が襲撃者たちに言った。
「よく聞きな!今すぐ引くんなら炎は消してやる、すぐに手当すりゃ命も助かる、だがまだやるってんなら……命の保証はできねえぜ」
「姉さん……あたしは……大丈夫だ……」
「いや、ここまでだ、生命のやり取りまでしろとの命令は受けていない、それに、舐めすぎたな、あいつらを……引くぞ、リルファイブ」
リル・ファイブと呼ばれた女が節たちに声をかける。
「勝負は預けておくぜ!」
リル・セブンが無言で犬山節を指差す。
三人の襲撃者たちは姿を消した。
襲撃者たちが消えるのと同時に、節が手印を解き、膝をつく。
「だ、大丈夫ですか!?」
大輔が慌てて声をかけた。
「黒は、特定の物を狙って燃やすことができます、やつの血液の中の糖を燃やしたんです、急速な低血糖で動けなくしてやりました、対象に一度触れなきゃいけないのと、使ってる間は黄色以上の集中が必要なんで――」
荒く息を継ぎながら節は続ける。
「一対一や乱戦の時は使えませんが、今日のような状況なら、頼りになる護りがあれば――」
「よく分かってるじゃねーか、アナクロ女」
伊三美が得意げに茶々を入れる。
「テメーじゃねーよ……くそ、正直、助かった……やるじゃねえかメスゴリラ」
「一言多いんだよ」
「……集中が不要で無差別に燃やす赤の炎なら、奴らを黒焦げにすることもできましたが――」
少しづつ息を整えながら、節は言った。
「――お望みじゃないでしょ?そんなのは?」
「ありがとう、犬山……いや、節さん、伊三美さんと荘さんも」
節は、一言も漏らさなかった大輔の意を汲んで、危険を顧みずに、誰も傷つけない方法を取ってくれたのだ、大輔の胸が熱くなる。自分は、この人にふさわしい人間になれるだろうか?
「とりあえずあそこのベンチへ……歩けますか?節さん」
「はい、なんとか――」
節は言いつつ立ち上がろうとするが、ふらふらと再び膝をついてしまう。
大輔は意を決した。
節の前に回り込み、背中を向けてしゃがむ。
「乗ってください、僕の背中に」
「そんな……」
「いいから」
「力ならアタシの方が――」
そう言いかけた伊三美を、荘が片手を上げて制する。
「空気を読んでください、伊三美さん」
「あ、そーゆーことね」
節の顔は赤くなっているが、どことなく嬉しそうにも見える。おずおずと大輔の背中におぶさった。
(女怒羅厳の五代目が、乙女の顔して男におぶさってる……撮りてえ……写真撮ってネタにしてやりてえが、ここは武士の情けだ)
伊三美は必死に笑いをこらえていた、心の隅にちくりとする感情を覚えながら。
ジェーン・ドウの赤毛の一房の攻撃を、清海は際どいところで躱した。
「まだまだ」
安心する間もなく、ジェーン・ドウの髪は立て続けに襲ってくる。清海は躱し続けるが、やがて一房が右の手首に巻き付いた。
さらに引き剥がそうとした左手にも、そして首にもジェーンの赤毛が巻き付く。
「捕まえた、言っておくけど、あたしの髪は簡単には切れないわよ、まして素手では」
ぎりぎりと手首の締め付けが強くなってゆく。
「まずは髪を使って防御に徹して相手の体力を奪い、疲労させたところで攻めに転じる策、中々のものだとは思わない?」
「そうですね、中々のものです、ただし――」
「ただし、何さ」
「相手が普通の人間の場合には、良い策かもしれませんね……ところで、『髪が簡単には切れない』とは、良いことを聞きました」
清海は左右それぞれの手首に巻き付いた髪を、逆に自らの手で握り返す。さらにじりじりと両手を中央に持っていき、首に巻き付いた髪の毛と合わせて一本にし、両手で握り直した。そして猛然と体を回転させ始める。
「くっ」
最初は回転に合わせて走って堪えていたジェーン・ドウだが、回転の速さに徐々に足が追いつかなくなり、遠心力で足が浮き上がり始めた。
「ばかな……!」
プロレスの技で言うところのジャイアントスイング、清海はそれを怪力によって、足ではなく髪を掴んで行っていた。
ジェーンは髪の毛を戻そうと必死になったが、清海の両手に掴まれた部分はどうしようもなかった。
十分に回転の速度が上がったところで、清海は両手を話した。
ジェーンはハンマー投げのハンマーのように、宙を飛んでそのまま壁に叩きつけられる、と思いきや髪の毛を使い、受け身を取った。
「あらあら、器用ですねえ」
ジェーンの目には怒りが燃えていた。徹底的にやってやる、そう思いながら清海へ向けて一歩を踏み出した瞬間、スマートフォンが独特の振動をよこした。引き上げの合図だ。
「残念だけど、決着はまた今度だね」
身を翻し、走り去る。
第八話 終