【モヤモヤ日記】心配ってありがたいものなの?

こないだの土曜、台風が関東を襲ったのち、月曜の朝に九州に住んでいる友人・エナちゃんからLINEがきていた。

台風大丈夫だった??
亡くなった人もいたようで、胸が痛みます。
お互い備えは万全にね。
元気でまた会いましょう。

的な。
またか、と思った。
エナちゃん、自然災害が関東を襲うたびにこうしたLINEを送ってくる。
エナちゃんのことはすきだが、こういうエナちゃんはあまりすきじゃない。
エナちゃんからの、この手のLINEには正直うんざりする。
そう周囲にこぼすと、「心配してくれてるのに、そんな言いぐさがあるか」的に、一様にたしなめられる。

そんなに?? そんなに「心配」ってありがたいものなの?
この想い、何かのたびにわたしの中に巻き起こる。
けれど、圧倒的マイノリティ。ヤフーの知恵袋を見ても、同じように「心配」に対してモヤってる人の質問が、同じようにたしなめられている。
同じような質問者もいるってことは、一定数「心配とか何」って思ってる人もいるってことだろうけど、それに賛同する人を見かけたことがない。なんで。なんなの。心配って。

わたしは、今そこに迫る危険を未然に防げそうな「心配り」は別として、してもしょうがない大概の「心配」は捨てることにしている。
夫と暮らし始めてから、その想いは決定的になった。
夫を、心配ということばで縛らない。心配が頭をもたげてきたら、信頼に変える。
心配に、わたしを乗っ取らせない。
信頼に変えられるように努力する。
それでもどうしても心配してしまうことはそりゃある。でも、それを相手にかぶせない。押し付けない。勝手に心配するだけ。
「心配なんだよ?」「心配してたんだから!」ということばで、相手を自分の思い通りにしようとなんてしない。
だからこそ、「心配してくれてありがとう」なんて気持ち、まったくもって生まれない。

冒頭の友人・エナちゃんは。
かつての仕事仲間で、仕事に対する考えで気が合っていた。お互い退職しても、住む地が遠く離れても、その仲は続いた。エナちゃんはいわゆる「元気で明るくてイイ子」なんだけど、その裏にいろいろ抱えてるものがある。まあ、みんなそれなりにある。けれどエナちゃんは、ちょっと厄介な優等生の呪いを自分にかけてしまっているかんじ。娘を持つ親になり、それが良くない方に露呈したようだ。いわゆる「普通」からはみでる部分を個性とは見れないようで。なぜ?どうして?と、娘への当たりが無自覚に強い。「わたしが娘くらいのときはすごく頑張っていたのに。娘は甘えている」。そういう思いがどうしても拭えないと吐露していたそれがすべてだろう。例えば、娘の不登校。行きたくないなら行かなくていい。勉強なんてどこでもできる。社会は広い。
とは、エナちゃんは思えないらしい。とにかく学校に行ってほしい。普通に行って欲しい。行くと約束したのに。行くと言ったからわたしはこうしてああしてやったのに。なんで。どうして。

そう延々と続く。学校に行ったとして、そのあとは? 学校に行くということだけがだいじなの?? 誰にとってだいじなの??? まったくもって形骸化している。行ったとて中身が無い。意味が無い。
そうエナちゃんに告げてみても、心に届いている感触はない。娘ちゃんの不登校は続いている。

そんなエナちゃんが、関東の自然災害のニュースを耳に目にした際、逐一、大丈夫LINEを送ってくるのだ。
関東といっても広い。ウチのエリア直撃のニュースが出てるならまだしも。まあ、ウチのエリアとか被害エリアとか、そんな細かく見てないか。
でも、そんなざっくりした認識のうえでの、大丈夫LINEなんだよなあ。そして、中身がいつも定型なんだよなあ。備えってなんだよ備えって。そんで、「大丈夫だよ~」の返信が大前提なカンジありありなんだよなあ。「大丈夫じゃない!助けて!!」って返信したら、九州に住むエナちゃんはどう反応するのかなあ。

結局のところエナちゃんの大丈夫LINEって、わたしへの心配ではなく、「友人を心配しているエナちゃん自身」に向けられてるかんじがするんだよなあ・・・
とこぼすと、また周囲に叱られるだろうか。
ものすごい被害に見舞われて、九州からのエナちゃんの大丈夫LINEが届いて、それに救われるときがあるだろうか。

結局はこのモヤモヤを、エナちゃんに言えないわたし自身との闘い。言えないからモヤつくということを、わたしは知っている。言えれば、このあまりすきじゃないときのエナちゃんも、すきになれるかもなのにな。
わたしの敵はわたしです。
ファイト。

てゆーか。
心配は捨てるに限る! に賛同してくれる人はいないもんだろーか。
まいいけど。

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