はしゃぎすぎてる夏の子ども
夏ほど大はしゃぎが似合う季節って、ないんじゃないかな。
梅雨が明けてスコーンと抜けた青空を見ると毎年、「はしゃぎすぎてる夏の子ども」というフレーズが頭の中に浮かびます。
「はしゃぎすぎてる夏の子ども」、この表現が大好きなのです。
(山Pバージョンの方が、絵的によかったかしら。。。)
作文講師として作文にからめて言うなら、「すばらしいたとえが入りました!」と大きなはなまるをつけたい表現。
そうです、たとえ。どの学年の子にも、たとえの表現を入れるよう指導しています。
「まるで~みたいに」とか「まるで~のように」
という表現ですね。
低学年では、お約束の「まるで」という言葉を使って表現するところからスタートしますが、学年が上がるにつれ、徐々に暗喩にも挑戦していきます。
また、はじめはモノを何かにたとえるところから、心情や情景などもたとえを使って表現できるようになっていきます。
「はしゃぎすぎてる夏の子ども」からは、
いま、この瞬間が楽しくてたまらない躍動感や、輝く命に圧倒されそうな、そんな雰囲気が伝わってくるのです。
言葉は決して万能ではなく、言葉で伝えきれないものもあるけれど、逆に心に響く表現に出会うと、言葉の力の偉大さを実感してしまいます。
夏の子どもという言葉には、終わりのある切なさも感じられて、人生の終盤に差し掛かっているだろう私には(笑)なおさら輝いてみえるのです。
夏という言葉をはじめ、あらゆる言葉の裏側には、いろいろなイメージや世界観があります。
それを感じてみてねと、子どもに求めるのは難しいかもしれませんが、言葉では説明できなくても、感性で読むことができる子もいます。
言葉の持つ見えないエネルギーのようなものを感じることができる子は、読解力もあるのです。根拠はないのですが、この15年の経験から、肌で感じていることです。
たとえの練習は、その感性を養うのに役に立つように思います。
大人になってからは、子どものように開放感溢れる夏休みを過ごすことはありません。それでも、私は、静かに「はしゃぎすぎてる夏の子ども」になっていて、心の中はわくわくや嬉しさでいっぱい。いい大人だし、恥ずかしいのでおもてには出さないように理性を働かせているつもり。
今年もまた、バレない程度に「はしゃぎすぎてる夏の子ども」になろうと思います。