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「食い尽くし」に寄せて 食い意地の張った3歳児の思い出

Twitterの一部で話題となっていた「食い尽くし系夫」を巡るツイートを読んでいて、ふと蘇ってきた記憶がある。

何かの折に実家にて、わたしが幼い頃のホームビデオを見た。
映っているのは推定約3歳と思しきわたしと、小学校低学年らしき兄。ちいさなきょうだいがテーブルを囲んでいる。
程なくして母が卓上に何か食べ物の載った大皿を運んでくる。
この食べ物が何であったか記憶が定かではない。唐揚げか、チョコレートか、もしかしたらケーキだったかもしれない。とにかくわたしの好物であったことは間違いない。
好物を見たわたしはまっすぐ喜びを露わにし、ビデオカメラに撮られていることなど気にもせず、子どもらしい少し舌足らずな、けれどまっすぐな声で叫んだ。
「これ、Kyokoちゃんの!Kyokoちゃんの!!」
叫びながら、母が兄とわたしのために取り分けようとするのを待たず、大皿から食べ物を取って(たぶん年齢的には手づかみで?覚えていない。フォークやスプーンを使ってではなく手づかみの方がイメージに合っている)、食卓を整える母とお行儀良くじっと待つ兄をわき目に、自分の取り皿に自分が食べたいだけの量を確保し、さらにこうのたまった。
「これ、Kyokoちゃんの!……ふう。後は食べていいよ」
そう言って余裕かつ満足そうに、自分が既に荒らした後の大皿を指し示した。まるで自分が施しを与える側のような仕草だ。
なんて偉そうな子どもなんだ!!
いくらなんでも末っ子すぎる!!
ホームビデオはその後も続き、わたしの偉そうな言動をコントラストで浮き彫りにするかのように、声変わり前の兄の「僕はこれ(わたしが勝手に取った後の大皿の残り)でいいよ〜」といういかにも聞き分けの良く優しそうなフォローの言葉が食卓の喧騒の中で録音されていた。
これも記憶が定かでないのだけど、もしかしたらわたしは例えばケーキの上に乗ったチョコレート製のプレートのような、「ちょっと特別で、普通誰かが食べるなら周りに一声かけた方が良い部位」をこの時この勢いでかっさらっていた気がする。
そうだったとしたら、なおひどい。典型的な第一子と第二子のありさま。申し訳ない。胸が痛い。

大人になってから初めてこのホームビデオを家族で見た時、わたしなりに結構な衝撃を受けた。わたしは昔こんなに王様でこんなにガキ大将だったのか。わがままにも程がある。
そして、食べ物への強い執着。「待て」ができない犬ってこんな感じかしら?と思わされるような、好物が登場した時の興奮の仕方と、皿への素早いアプローチは、「本能」「動物」といった単語を思い出させた。
「食い尽くし」ではないけれど、「絶対に満足するように食べるぞ」「絶対に他の人より損しないぞ」という、不満足への恐怖・嫌悪を強く感じる映像だった。
わたし以外の家族は笑っていたから、「そうそう、Kyokoは昔こうだったわよねぇ〜」という共感・懐古の感情だったのだろう。自分で思っていたより、わたしが家族の目にはとんでもない自己中モンスターに見えていた可能性を知り、冷や汗をかいた日だった。いや、三つ子の魂百までというから、今もこれくらいわがままなのかもしれない。

「食い尽くし」に関してTwitterで燃え盛っているツイートの中には、的確だと思える批判もあれば、あまり建設的でない中傷だったり、「こういうのって発達障害じゃないの?」という無責任無根拠な意見だったり、とにかく色んなものがある。それ自体は別にいい。Twitterってそういう場所だと思ってるから。
それら一連のツイートに自分の過去を想起させられ、わたしが改めて思ったのは、要は「わがまま放題を是として育てられるか否か」そして「成長過程でそれを正されたかどうか」「他人への思いやりを学ぶ機会があったかどうか」が、「食い尽くし」的行動の分岐となっているのだろうということだ。

日本社会が傾向的に男性を「わがまま放題」のまま大人にさせることを容認しがちなのだとしたら、ざっくりこの問題を男性性のせいにするのも間違っていないと思う。
ただ、もちろん男性でも思いやりに満ちた人はいるし(超当たり前)、もしわたしが3歳児のメンタリティのまま育っていたら、わたしは今頃夫の夕飯を食い尽くす系モンスター妻に進化していたことだろう。

だから何って話だけど、思い出の記録として。

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