劣等感が生きる糧
誰もが羨むような何かを恨み憎むことで、私は自我を保っているのかもしれない
もう少し器用なら
もう少し見た目が良かったら
もう少し才能があったら
もう少し、もう少しと決して"少し"では埋まるはずない理想との差を誤魔化してくれるのは、その"もう少し"を贅沢に備えている誰かへの劣等感だ。
仕方がないと諦めがついた時に生まれる劣等感が、安定剤となり現実を見つめる強さを与えてくれる。
そして刃を突き立てる勢いで嫉妬を向け、自分とその対象の差や違いを冷静かつ血眼に探した時に気づいた
私にはあって、その誰かにないものを持てば、私はその誰かを越えることができる、と
すなわち、私が思う完璧を超えられる。
なぜなら、いわゆる”持っている”者は、”持たない”者の渇望を想像できない上に、当たり前に兼ね備えられている才能や美貌を失くしてしまうことに怯え続けなければならないからだ。
濾過された飲料水しか飲めない天才より、泥水でも喜んでがぶ飲みする凡人の方が、透き通る水のありがたさや素晴らしさを感じられる。
満足気に泥水で汚れた口元を拭う私を笑っている誰かは、喉の渇きを我慢できなくなった時、泣く泣くその汚れた水を飲まなければならない。
満足度や幸福への感度が高い私は、最強かもしれない
私は誰から笑われようとも、自らの劣等感へ忠実に、誰もが羨み恨む理想を追い続けてやると決めている。
そして、いつか渋々と泥水に口を付けなければならなくなった、あの子に、あの男に、「意外と飲めるもんでしょ?」とまるで先輩風を吹かせるように鼻高々と言い放ってやるんだ。
そこで透き通った水を、少しでも与えてやれば、きっと私は劣等感を抱かれる対象となれる。
そんな日を夢見て、私は今日も生きていた