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ピアノ・アゲイン③ ~コンプレックス感

指先をカギのように曲げたまま鍵盤の上から数センチ上のところから指先を打ちおろす日本伝来の「ハイ・フィンガー奏法」の音楽的欠陥については中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」に詳しく載っています。ずい分前に一度読んでいますが、改めてこの弊害を思うと残念というか、溜息が出ます。もし子供の頃に違う教育を受けていたら私のピアノ史はもっと違うものなっていたのかもしれないと思うわけです。

母が怖いから、レッスンがあるからとピアノを続けていた私には、音楽は好きだとしてもピアノを弾いて楽しいという感覚はありませんでした。どちらかというと義務のような感じです。

先日とある奏法研究会に参加しました。F.Bで告知するだけの小さなイベントでしたが、会場には100名くらい集まっていました。そこに集まるのはピアノ再開組はもちろん、ヘバーデン結節やリウマチなど指の故障を抱えてはいるけれど、ピアノが弾けるようになりたい、うまくなりたいという人達でした。私は幸運にも公開レッスン生に選ばれレッスンをつけてもらいました。

そこで言われたことは「ゆるんで、ゆるんで力じゃないの、指で弾こうとしないで。(音を)キーンとさせたらダメなの、それをすると腱鞘炎まっしぐらよ!ゆるんで弾けば90歳まで弾ける!」ということでした。その先生はいわゆる指の練習ハノンもチェルニーを必要ないと断言されていました。「頑張るな」ということです。

手首や指をゆるめて弾く快感を知った今、「ピアノを弾いても楽しくない」のは身体とのマッチングがうまくいっていなかったのだとわかりました。身体というのは本当に正直です。何をもって「楽(らく)、快」とするかはその人本人にしかわかりません。力を抜いて「楽」に弾いた音がす~~っと美しく響くとしたら?楽しいですよね!

ずっとあったピアノに対する「コンプレックス感」は実は身体からの「力んでるよ」という信号だったんだとようやくわかりました。「上手な演奏」には自分の手首がどれだけ楽に動くか、腕がどれだけ肩甲骨と繋がっているかなど力身のない身体でいることの方がずっと重要なファクターでした。力を抜くとは意識からの「ああせよ、こうせよ」という強要もない状態です。私の憧れる風にただそよいでいる美しい姿の「野に咲く花のように」(エッセイのタイトルです)がここにありました。

個人レッスンではつい肩をいからせて弾いていると、すっと先生が肩をさわってくれて、あ、力が入っていたんだと認識させてくれます。肩や胸を硬直させて弾く癖は根深くまだまだありますが、鎧を脱ぐように、少しずつ「楽」になって行きたいです。(歌を歌う時もこの癖があることも発見しました。)先生はレッスンの後連絡をとると「今日もすてきな演奏をありがとうございました!」と言って下さいます。先生に「ステキな演奏!!?!!」と言われることなど生涯で初めてのことです。

今は情報もたくさんあり、昭和の時代の閉鎖的なあるいは封建的なピアノレッスンとは人間も内容も熟成して確実にレベルが上がっています。シゲル・カワイに誘われて始まった「ピアノ・アゲイン」ライフ。64歳にもなって新しいピアノを買ってどうするの?とは散々自問しましたが、まさかこのような展開になるとは思ってもいませんでした。

何の道筋も見えていませんでしたが、心から望んでいることって時間はかかるけれど叶うのかなって感じています。胸のダイヤモンドの言うとおりにして良かったです。

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