生きてる音
昨日晩、「明日と、明後日の豆の準備(ハンドピック)は大丈夫か?」と聞かれて、ちょっとしたプレッシャーの様な不安がおおいかぶさった。間合わなかったら後の予定が困るな…と思いつつ無事、準備が出来こうしてこっそり京子日記を読んだ記録を書いている。
浅草に浅草寺があるのだが、先だって日本手ぬぐいの打ち合わせに行った時立ち寄って引いた大吉みくじを廊下から見える様に貼って今日も1日が無事始まっている。
さて京子日記を読むと生きている音が聞こえてくる。
ここ数日、調子が好ましくないがそれは自分が新しく生きようと努力している過程と思っている。物語の最後はどうなるか決めているが生きるということは、常日頃思いもよらぬ出来事というサプライズで分岐点が用意されている様に思える。生きていることの辛さと喜びはトントンだ。
当たり前の様なことが当たり前でなと再確認する朝。
どんな日も今日1日
と、いう言葉の意味を噛み締めながら、今日も深く息を吸って心に生まれかける不安は吐いて無くすことがコツと自分に言い聞かせる。
今日こそ珈琲こしの続きの依頼をしに行きたいと準備しているのだが本当に出来上がったら面白いと思う。
玄関のブザーが鳴る。なんだろう?