わたしにとって不食は手段
今日から不食です
わたしにとって不食は手段。
社会に合わず全力を尽くしたにも関わらず倒れて働けなくなったり、事故にあったり、救急車に運ばれたり、、
で、お金に困った時、
少量の水だけでいいや、と。
他にも、健康への手段として水分のみで過ごしたり。
今現在で言うなら、たまに料理を頂く時に、ほんとうに美味しくなります。
少量とはいえ、満腹になります。
で、その満腹になるまでを楽しむため。
お酒も、手料理も。
あとは、災害の時も安心だし、
無駄な欲や思考がなくなり、自分と繋がる感覚が楽しくて、生活してるだけで温泉やお酒よりも遥かに氣持ちよくて、
あまり氣持ちよさに浸ると言葉を話せなくなります(笑)
やり過ぎると呼吸も心臓も止まるので、人離れしてしまうな、と、わたしはそこまで何かを追究したい目的はないので、
行き過ぎる前にお酒や水以外のドリンクを飲んだりして波動を重くします。
不食(わたしは『食べない人達』という本を参考にしました)は、現代を生きる上で、殆んど全ての悩みを解消できる手段であると思います。
不食で氣を付けることは、憧れに惑わされて己の本音に気付けない時は少食によって内臓を痛めます(甲状腺や副腎)。
こうした事故を避ける方法の1つとしては、『不食』という言葉を使うのをやめたり、
『不食』というラベリングをやめるのです。
そして、食事内容にこだわらない。
自分は何者でもなく、他者も何者でもない。
ただ目の前には、己が自覚か無自覚か、創造してきた夢が現実となっている。
ただ感じて生きると、情報も食事のようで、他人のエネルギー(波動)も食事のようで、
空気や音、光、自分の身体も食べているようで、、。
こうして、一旦自分をほどいていく。
ほどいたままだとフワフワして、また事故りやすくなるので、
自分の心の置き所を定める。
自らの完成された思想がないから、今不食を学んでいる場合は、誰かの思想を元に食生活をする。
合えば深める。
合わないとなれば、もう少し吟味するか、他の思想を学ぶ。
誰かの思想を学びながら、たまにラベリングを外す。(先ほどのように自分をほどく)
それを繰り返していくと、自分の思想が固まっていく。
自分の思想が固まれば、人間関係の距離感も定まる。
もちろん、それに合わせて食べ物との距離感も定まる。
その距離感で生きた結果が、呼吸だけの人もいれば、魚ばかり食べる人もいるかもしれない。
わたしは固形物はたまにだけど、米(生も)が好きで、
カフェインは取らないけど、
アルコールは取る(ほどほどに)。
水すら飲まないというのは、人と関わらない場合はあっても、人と会話するなら水くらいは1日の中で必ず飲む。
その時は普通の水。
味はつけたくない(塩とか茶とか)。
カフェに行った時、席代として飲み物を頼んでも一切飲まないこととかよくあった。
で、それがわたしのしてきた生活というだけで、食ってる日もあるから不食じゃないじゃん!と思う人がいれば、その人にとってはわたしは不食ではない。
ただ、わたしはこの生活で、あなたはあなたの生活をしている。