プレ皇室研究: 神武天皇東征ルートを再考する 速吸門
前に神武天皇の東征ルートを調べたのだが、ちょっとひっかかったことがあるのだ。
従来説は、宮崎県出発だけど、私や原田先生の説は、九州北部 糸島市あたり出発だ。
それで、なぜか大分の宇佐あたりにいったのであるが、宇佐大社はまだないので、理由については謎だったが、その周辺に、水銀脈があるのだ。
だから、神武天皇が水銀脈探しで、軍資金を掘ろうとしたので、これはOK.
ところが、
「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現・宇佐市)に着く。菟狭津彦命(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、筑紫国の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。速吸門で亀に乗った国津神に会い、水先案内として槁根津日子という名を与えた。」
筑紫国の岡田宮で1年
阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年
吉備国の高島宮で8年
速吸門というのがわからないのだ。
「速吸門(はやすいのと、はやすいど)は『日本書紀』・『古事記』に見える古代日本の地名。
豊予海峡(速吸瀬戸)の古称(『日本書紀』)。
吉備国の児島湾口の古称(『古事記』)。古くは早水の戸と呼ばれ、潮流が速く阿波の鳴戸にも劣らないほどとされた 。[1]現在は、児島が児島半島になったことや、児島湾締切堤防などにより、潮流は緩やかになっている。
明石海峡の古称(『古事記』)。」
一般には、豊予海峡のことと思われているが(宮崎県出発なので)、これは大分と愛媛の間であって、九州北部出発説だと、そこまでは南下しない。
であるが、2つめの岡山の児島湾であれば、完全に途中である。
ついでに、明石海峡でも問題ない。
高島宮→畿内 と考えたら、順番だと明石海峡のほうがいいのかもしれない。
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