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古代駅を調べてみました。

先日、神社の意味を考えましたが、古代の駅がいつからあるか調べてみました。

https://note.com/kyokannazuki21/n/n6febca786b31?from=notice

駅といっても、道の駅でもなく、JRの駅でもありません。
しかし、駅という短い漢字1文字で意味するの、すごいなあ。


いわゆる律令制で、官吏や軍隊が確実に目的地にいくのに整備された道路です。
ローマの道と同じです。
駅は、馬が入ってきてから、馬の世話をして、馬を乗り継ぎで貸し出しするのに整備されました。もちろん、官僚が行程途中で休憩をしないといけないので、ちょっとした休憩スペースもあるのです。ない場合は、たぶん近くに民間の休憩所、まあ古代はお茶がないですが、お湯を飲ませたり、軽食くらい出す喫茶スペースが出たんじゃないかなあ。→神社で休憩したかなあとも思います。

「駅路(えきろ)とは、古代律令制において定められた駅使が通行する官道のこと。七道駅路(しちどうえきろ)ともよばれる。宿駅・駅馬(えきば/はゆま)が整備された(駅制)。中央もしくは国府が発給した駅鈴を携行する駅使のみが駅馬を用いることができた。

都と大宰府及び五畿七道の国府とを結ぶ迅速な情報伝達を目的とする道路網であり、中央政府の命令・地方国司の報告・緊急事態の文書連絡は、駅使がこの道を用いて駅馬を乗り継ぎ文書を運んだ。都から放射状に道路が整備されたが、五畿七道を跨いだ国府間を連絡する道も整備された。」

今でも「東海道」とかいうのは、その名残です。

「古代律令時代の駅路は七道駅路ともよばれ、古代日本の領域を覆うように巡らされた駅路の道路網を指し、畿内にある都(平城京、のちに平安京)を中心として樹状に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道の地域のすべての国々に伸びていた[10]。西海道のみ大宰府を中心に道路網が形成され、都とは、九州地内における山陽道と大宰府を結んだ区間である大宰府路(大宰府道)とよばれる西海道の一部と、山陽道を通じて結ばれた[11]。また、七道駅路は重要性によって大路・中路・小路に分けられていた[12]。大路は山陽道と大宰府道、中路は東国に向かう東海道と東山道、小路は北陸道・南海道・山陰道・西海道(大宰府路を除く)に該当する[12]。古代律令国家の大動脈となった大路は、外交・防衛上から大陸に最も近い西海道と朝廷がある畿内を結ぶ山陽道が、重要な交通路として最も栄えた[7]。」

うへー、直進性大事なんだ。

「古代の日本では、橋やトンネルをつくる技術がない時代であったため、集落間を結ぶ道は曲がりくねった細道であると一般に考えられているが、七道駅路は中国の隋や唐代の道路制度に倣い、中央の情報をいち早く諸国に伝えるために地形の起伏よりも距離を重視しており、最短距離で結ぶように畿内から放射状に直線的に延びていた[15]。

全ての駅路に共通しているのは、以下の3点である[16]。

都と地方とを結ぶ全国的な道路網であり、その路線計画にあたっては、直進性が強く志向されている。
道路の幅を視覚的にとらえられるよう、幅を明示するための施設(側溝)を持っている。
通行の安全性、もしくは安定を計るため、さまざまな土木工法を用いるとともに、その補修や維持管理についても力が注がれている。
幅員や直線性については、現在の日本の高速道路のルートに通じるものがあり、発掘調査で30 kmも直線に伸びている区間や、側溝を備えた幅員12 mの直線路が発見されている。このような幅員の広い道路が建設された理由はわかっていないが、朝廷の権力を国内外に誇示するため、また軍事目的で人員を大量派遣するために必要であったものと推測されている[15][17]。所沢市の東山道武蔵路遺跡の発掘調査状況の結果では、当初12 mあった道幅が、平安時代に入ると9 m、さらには6 mにまで縮小されていたことがわかっている[17]。その他の例からも奈良時代の駅路は朝廷の権力を人民に見せつけるために作られた側面もあったが、時代とともにしだいに実質に見合う道幅に落ち着いてきたと考えられている[17]。」

さて、肝心の開始時期はどうも大化の改新前くらいのようです。聖徳太子のちょっと後くらいからですかね?
いやー、ブルドーサとかもないですから、手で1mずつ整備するってかんじで大変です。
しかし、まあ、これを整備した大和朝廷、賢い。予算を犠牲にしてでも整備していて、日本の土木能力えらい。

大和と地方を結ぶ道路は大化以前から存在していたが、大化の改新以後の律令国家の形成に伴って整備が進められた[5]。とはいえ、駅路は一朝一夕に完成したものではなく、信濃国と美濃国を結ぶ吉蘇路(木曽路)が完成したのは和銅6年(713年)のことであり、以後も駅路の整備・変更が行われている[6]。この時代は大きな川に橋を架ける技術が未熟だったことから、陸奥国・出羽国・武蔵国は東海道を経由しておらず、3国の行政区分は東山道に属しており、駅路も東山路経由で整備されていた。その後、東山道に属していた武蔵国は、東京湾奥部の湿地帯が時代とともに陸地化していったことから、8世紀末(771年)に行政区分が東海道に移管され、10世紀以後は駅路としての東海道が武蔵国を経由するルートにて確立された[7]。ときには、作路司と呼ばれる専門の役職が設けられたこともあり、大同3年(808年)には作路司に登用された3人の高官が、近江国・丹波国などの五畿諸国の人夫500人を使役して、道路を築造したという記録が『日本逸史』に残されている[8]。駅路のシステム(駅伝制)は10世紀ごろまで続いたといわれているが、10世紀末期に始まった藤原氏の摂関政治による地方政治の混乱と中央集権体制の弱体化によって、律令体制が崩壊するとともに駅路は使われなくなり、また駅路自体が人里から遠く離れたところを通っていたことから生活道路として利用されることもなかったため、しだいに山野に埋もれ廃れていった[9]。」

まあ、そんなわけで、おそらく古代は、ネットワークの線と駅がノード部分で、神社だけがノードで休息所や倉庫としても使われていたのが、駅路によって、さらに便利になります。

古代人、すごい。

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KyoKannazuki21
AI,脳科学、生物学、心理学など幅広く研究しております。 貴重なサポートは、文献の購入などにあてさせていただきます。 これからも、科学的事実を皆様に役立つようにシェアしていきたいと思います。 ありがとうございます!!