プレ皇室研究: 天火明命
この人、ちょっと怪しいねん。
「『古事記』及び『日本書紀』の第六・第八の一書によれば、天火明命は天忍穂耳命と高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間に生まれた子とし、天火明命が兄で、邇邇芸命は弟とされる。一方、『日本書紀』の本文および第二・第三・第五・第七の一書では、天火明命は邇邇芸命の子とする。
『先代旧事本紀』は、天火明命は穂積臣や物部連の祖の饒速日命の別名であり、饒速日命と同一神と記す。このことについて、世代関係や活動地域から疑問が大きいとする説もある[2]。」
ニニギの子供説もあるのだ。有名な海幸彦、山幸彦の兄弟ってことになって、火が燃える最中の子供なので「火」の名前がある。
こういう怪しい人物の場合、親兄弟がこのように2説あるので、奥さんの人脈をみることにします。
あれれ? 2人いる。
天道日媛命、御炊屋姫(弥彦神社)
この後者はよく見ると、ニギハヤヒの奥さんで、ナガスネヒコの妹なので、これは「ニギハヤヒと同一人物」説を元にしたようです。
これは、ちょっと怪しいので、前者の妃を見ます。
あれ? 尾張氏と関係あるようです。
「父は、先代旧事本紀では、天日神命(あめのひのみたまのみこと)[要出典]。尾張氏系図では、大己貴神(おおなむちのかみ)。先代旧事本紀に従うと、天津神、尾張氏系図に従うと、国津神となる。
夫は、天火明命(あめのほあかりのみこと)。別名、饒速日命(にぎはやひのみこと)。
子は、天香山命(あめのかごやまのみこと)で、越後国一宮の彌彦神社の祭神。
天香山命の異母弟に、石見国一宮の物部神社の祭神の宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)、別名、可美真手命(うましまでのみこと)がいる。」
うーん、奥さんもなんか「太陽」関係ぽいですね。
あ、対馬がきた!!
「天日神命(あめのひのみたまのみこと)は、『先代旧事本紀』などに現れる神。天照大神とは異なる系統の、対馬での信仰に由来する太陽神とされる[2]。」
あー!! これ、なんか怪しい。
「北條勝貴は、『日本書紀』顕宗天皇紀において、阿閉事代という同一人物の関与(コトシロは神の言葉を預かり述べる象徴的な人物を意味するとされる)や、事代に託宣を下すのが高皇産霊命を祖とする月神・日神であるという神格の対応性、祭祀を司る氏族がともに玄界灘の島を本拠とし卜部を出す壱岐・対馬の旧国造系氏族であるという祭祀担当者の対応性からすれば、壱岐・対馬の日神・月神が密接な関係にあることは明らかであり、木嶋坐天照御魂神社が元来対馬氏によって奉祀されていたのか、それとも尾張氏系の氏族によって奉祀されていたのかは不明であるが、顕宗3年2月紀・4月紀に見える、上記のような対応性を考慮すれば、日神を奉祀する木嶋社が葛野の月読神社と地理的に近接している事実は無視できず、日月の両信仰が、ある時期に玄界灘から畿内地方へともに移植され、両社もそれらと軌を一にして創建されたものではないかとしている[2]。」
月読の神社があるのだが、怪しいのだ。活躍していないのに・・・。
これは、別の月の神様がいて、月読命に振り替わったんじゃないかな??? あるあるだな。
これ、京都だけど怪しい。
「祭神は次の5柱[2]。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
大国魂神(おおくにたまのかみ)
穂々出見命(ほほでみのみこと)
鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)」
「前述(「祭神」節)のように祭祀の淵源には諸説があるが、嵯峨野・太秦周辺は渡来系氏族の秦氏が開拓した地で、広隆寺・松尾大社・蛇塚古墳などの関係寺社・史跡が知られることから、木嶋社もまた秦氏ゆかりの神社といわれる[10]。また現在本殿の東隣に鎮座する蚕養神社は、この秦氏が招来した養蚕・機織・染色技術に因むと推測される[12]。ただし秦氏の渡来以前にも、木嶋社付近では和泉式部町遺跡などの弥生時代頃からの集住を表す遺跡の存在が知られている[9]。」
うーん、怪しいなあ、怪しいなあ。
それに、九州北部にこの人の墓がないんだよなあ。
さて、次に関連の神社があるかを確認する。基本は九州北部で神社があるかみるのだ。
福岡県だとこの神社があるんだが。
「創建時期は不明。天平期730年代の成立と言われる『肥前国風土記』に小郡の大崎の土地に七夕の神様が祀られるようになった経緯が昔話として載っている。
『肥前国風土記』基肄郡 姫社の郷の項に
姫社の郷 この郷の中に川がある。名を山道(やまじ)川という。その源は郡の北の山(基山)から出て、南に流れて御井の大川(筑後川)とであっている。昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、そのト占のしめすところでは、「筑前の国宗像の郡の人、珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられれば祟らない」とお告げがありました。宗像の珂是古が幡を捧げて「私に祀ってほしいならこの幡よ順風に飛んで祈る神の辺りに落ちよ」と祈祷し、幡を飛ばして占ってみると御原の郡の姫社の杜(七夕神社)に落ち、また還り飛んで山道川の辺りに落ちました(姫古曽神社)。その夜に、夢に機織り道具が回りながら出てきて珂是古を押さえ、そこで祟る神様が女神様で有ることがわかり神社を建てて祀った、とあります。
近年、日本各地の七夕のイベントで掲げた短冊が送られていて七夕の御祈願や短冊を神前に供え焚きあげている。
川の対岸には、菅原道真公と牽牛神の天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祭る老松神社がある」
この由緒だと意味がないんだよなあ・・・。
たたっているだけなら、どんな神でもよい。
プレ皇室の意味がないのだ・・・。
老松神社もいまひとつだなあ。平安時代だから、私が探しているのとは違う。
やっぱり、もともとが対馬の太陽神であって、皇室の天孫族に組み込まれただけってことかなあ???
あ、これこれ!! ほらね、単純に対馬の太陽神なんだわ。
皇室ができる前から、もともと太陽神が対馬では信仰されていたのだ。
というわけで、この人は「取り込みされた神様」であって、実在する皇室の先祖とはあまり関係がないので、お墓探しはやめます。
追記
と思ったんだけど、もしかしたら、奴国王の可能性がでてきました。
なぜなら、伊都国の前に住んでいた場所が、奴国 福岡市かもしれないのです。
ニニギが、「天孫降臨」で「他の国にいけー」っていわれて、伊都国の王様になったのであれば、出てきた元の場所が必要ですが、これ、どうみても日向峠、クシフル岳に到着してるんだけど、海から来ても、山越えで来ても、どっちも奴国なのだ。春日市または福岡市なだけで。