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体からこぼれる言葉

言葉を介するコミュニケーションは危険だなと度々感じることがある。
今話題となっている「言葉の暴力」といった類の話でなく、言葉というツール自体に頼りすぎることに対して危険性を感じている。

もちろん、言葉は偉大だ。
人類は言葉を発明・発達させることでコミュニケーションを取り、知力を高め、大きなコミュニティを形成しながら生きてきたことは自明の理であるし、言葉が持つ力は計り知れない。

言葉には客観性がある。ゆえに言葉を介して多くの人がものごとを理解することができる。

しかし、本当に理解しているのだろうか。
あの人が発したその言葉は、本当に100%あなたに届いているのだろうか。

私は届いていないと思う。
残念ながら、自分が表現したいことの7割程度(感覚ですが)しかちゃんと相手に伝わっていないと思う。

例えばAさんがあることを感じ、Bさんに向かって「a」という言葉を投げかける。それに対してBさんが、Aさんに向かって「b」という言葉を返すとしよう。

以下、少し長くなるがこの一通りの会話中に生じる「身体知覚のロス」を数えてみる。

まず、Aさんの体が知覚したことをAさんの脳に送る。
「Aさんの体の知覚→脳への伝達」の過程で、Aさん自身の中でロスが生じている。(1ロス目)

Aさんの脳の中で、Aさんの思いは「a」として言語化される。
「脳が知覚したことを言語化する」過程で、Aさん自身の中でロスが生じている。(2ロス目)

Bさんの耳が「a」を知覚し、Bさんの脳に送る。
「Bさんの体の知覚→脳への伝達」の過程で、Bさん自身の中でロスが生じている。(3ロス目)

Bさんの脳の中で、Bさんの思いは「b」として言語化される。
「脳が知覚したことを言語化する」過程で、Bさん自身の中でロスが生じている。(4ロス目)

Aさんの耳が「b」を知覚し、Aさんの脳に送る。
「Aさんの体の知覚→脳への伝達」の過程で、Aさん自身の中でロスが生じている。(5ロス目)

なんと、この短いやり取りの中で、Aさんの中では5段階もの身体知覚のロスが生じているのだ。

こんなにもロスが生じているということに気づいたとき、私は怖くなった。
何が怖いかと言うと、こんなロスなどみんな生じていないと思っているような感じで会話していることに怖くなったのだ。

「言葉は人間がつくった虚像としての危うさを持っている」ということを、胸に抱きながら話している人は世の中にどれくらいいるのだろうか。

会話中にロスが生じる可能性がある前提で会話をすることで、「それでもこの人に伝えたいんだ」「伝わってくれたら嬉しい」という優しい想いが生まれると思うのだ。
みんながそういう想いを持ったら、どれだけ優しい世界になるだろうか。

言葉には危うさがある。
でも、だからこそ、人々はこのツールを大切に扱いながら必死に言葉を紡ぐ。

言葉という道具を大切にしたいと切に願いながら。愛を込めて。


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ニライカナ
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