見出し画像

米国スポーツマネジメント大学院 #5 留学ハネムーンの終わりと「やりたいこと」の純粋性

こんにちは!米国サンフランシスコにてスポーツマネジメントを学んでいるものです。
これまでの記事で最初の授業のことや、生活のことを色々と書いているので、そちらもよかったら読んでみてください。

※なお、今回はちょい長めになっております。

適応曲線

突然ですが、皆さんは「適応曲線」って聞いたことありますか?
心理学などにおいて提唱されているモデルで、時間経過と共に人が新しい文化に適応する過程のことを指します。

https://www.sacc.hokudai.ac.jp/international-student-room/useful-info/culture-shock/ 
より

これは以下の4つの時期に分類されます。

  1. ハネムーン期(最初の1〜3ヶ月): 新しい環境や文化に対して好奇心や興奮が高まり、全てが新鮮で楽しいと感じる時期。

  2. カルチャーショック期(3〜6ヶ月頃): 環境に慣れ始めると、日常生活の違いや言葉の壁、孤独感が増し、ストレスや疲労を感じやすくなる時期です。この時期に「楽しくなくなる」という感覚が生じやすい。

  3. 調整期(6ヶ月〜1年): 徐々に現地の生活や文化に慣れ、問題を乗り越える方法を学び、心地よさが戻ってくる時期。

  4. 安定期(1年以上): 現地の文化や生活に完全に適応し、自分らしい生活リズムを取り戻す時期。

こういった類の話を聞いたことは皆さんも多かれ少なかれあるのではないかと思います。自分も実際にこのような説明を留学生向けのオリエンテーションで聞きまして「ふむふむなるほどね、まぁ自分は大丈夫っしょ」と聞き流していました。

ではこのような理論が実際に当てはまるのかというと、結論から言えば当てはまっていました。

自分は現在ハネムーン期が終わり、4ヶ月目ももう終わるころですが、まさに9月末頃〜現在にかけて「確かに、ハネムーン終わったなー」という実感と共に、8月までに感じていた充実感を失った感覚があります。と、いうわけでこの心情の変化を分析してみよう!ということで今回のnoteを書いてみましたよ。
(※ホームシックみたいなのにはなっていませんのでご安心ください。)

「ハネムーン」の終わり

ハネムーン期からカルチャーショック期への移行は、
① それまで感じていた新鮮な体験に慣れてくる
② ①により気づいていなかったギャップや壁に苦しむ

みたいな構成だと思うのですが、自分としてはこれ、①は当てはまっていて②が当てはまってないなと感じています。程度という視点で当てはまってるかどうかということです。0か100かじゃないです。

確かに、留学きて最初はそもそも1人暮らしさえも初めてだったので、新しいことにまみれていました。毎日のようにジムに行くのも、初めて観に行くアメリカサッカーも面白い。でも、どんなに新しいことも繰り返すと慣れてきますし、むしろ慣れないと困っちゃいます。

一方で②に関しては、意外と当てはまってないなと思います。文化や言語のギャップで苦しい、辛いという思いはあまりしていません。多分理由は#1でも書いた内容と重なるので割愛!
自分でも意外なのがよく聞く汚いとか不便とかというところが大丈夫な点です。もっと苦しむと思っていました。これもきっと高田馬場と渋谷のおかげ、、?


「カルチャーショック」ではないけども

さて、とはいえ私の「ハネムーン期」が終わってしまったのも事実。適応曲線のモデルに沿って考えれば、時間が解決してくれるのですが、それは苦労や嫌なギャップに慣れてくるからという話。僕の場合はそこが問題ではないので、座して待つわけにも行きません。

ここで思い出したのが、私たちは退屈に耐えられない、ということです。出典は『暇と退屈の倫理学』。

私は週に一回しか授業がなく、それ以外の時間は全て自由。信じられないくらい時間があってどのように使うかは自分次第です。もちろん課題とかはありますが、それに忙殺されるような量ではありません。自分次第なだけであって、暇ではあると。

クラスメイトのように仕事を得られたらこんなことも言ってられないのかなとも思うのですが、インターンシップやアルバイトに応募しては落ちることを繰り返しているとなかなか「あーこれで良いのだろうか」みたいに考えてしまったり、モヤモヤとする時間が生まれてきてしまうんですよね。

ただ、こっちにきてから最初の2ヶ月はこれに気づかないで済んだんです。新しい場所だ!という刺激で忙しかったので。ただ、前述したように新しい国の環境になれたことで、退屈がヨッて顔を出し始めたみたいな。これが、カルチャーショックじゃないんだけど、マンネリしてるなーという感情の正体だなと感じています。

なので、仕事を得ることができればこの状態からも脱することができるはず!ということで私はまたいそいそと仕事探しに戻っていきます。


これってきっと留学とかに限らず

ということを踏まえて、でもこれって、想像なんですが仕事をしていてもそうなんじゃないかなと思うんです。僕の同期はほぼみんな新卒で2024年から働いていて、インドに行ってるやつとか岐阜に配属になったやつとかスーツでアクロバットしているやつがいるのですが、みんなも同様に慣れてきて、モヤモヤっと退屈さを感じている人もいるのではないかなと想像します。
想像なので違ったらごめんね。

でも、そういったものって外の人からは見えないもので。僕から見たらインドでの生活も、家電出張に行くのも、大勢の観衆の前でパフォーマンスをするのも、デスクワークも営業周りも何もかも、好き嫌いは一旦置いておいて、新鮮で刺激的な出来事に見えるわけです。そして、同時に、僕が今している経験も、きっと日本にいる多くの友人から見たら刺激的に写っているのでは無いかなと思うんですね。ただ、結局それは大事ではなくて。例えば、誰もが羨むような日本代表のサッカー選手であっても、本人が退屈だなーと感じていたら悩んでしまうように、結局は自分が現状に対してどう感じているかが一番大事です。

じゃあそれにどうやって立ち向かっていくのか。近いうちにもう一回『暇と退屈の倫理学』を読み直すとして、シンプルですが、意識的に新しいことを体験することはやはり大事だなと感じました。

例えば、サムネでもあるDJライブはどう考えても自分の好みじゃないことは分かっていました。ただ、大学生活を振り返るnoteでも書いたのですが、振り返った時に後悔するような時間の使い方はしたくない!という点から考えると、「今この場でしかできない経験」って絶対したほうが良いと思うんです。若いんだし。

何より、今回のライブで気づいたのは「楽しいところを探そうと思えば意外と楽しい」ということでした。自分は「これはどうせ好きじゃないな」と決めつけてしまうクセがあるのですが、この前提にしていた認識を変えるだけで体験自体の印象も結構変わるのは面白かったです。22:00~26:30みたいな意味分からんスケジュールで、聴力も持っていかれましたが、思ってたより悪くなかったなと思えました。期待値を目一杯下げていたのも関係していると思いますが。

「思い込んでいるだけじゃん」というとそうかもしれないんですが、思い込みでも楽しめるならそっちの方が良いです
え、もう一回行く?それはちょっと、、、


他人軸だっていいじゃないか

さて、こんなふうにモヤモヤしていると、この海外の大学院という選択、スポーツビジネスという選択を「何かを追い求めないといけないという焦燥感に駆られていただけで、本当にやりたいことじゃないのではないか」と、疑う時期が定期的に訪れます。「好きだからやってるんじゃなくて、他人と違うことをしたいだけとか、周りにすごいって思われたいだけなんじゃないか」みたいな。

こういった自分がいる環境の前提部分を疑うというのは、現状に満足いかない/上手くいっていない、モヤモヤしている人がよく抱えがちな悩みなんじゃ無いかなと思います。
(思い返すと、留学先が決まらない時もこんな感じでした)

「本当にこれが自分がやりたいこと/好きなことなのか?」
「好きなことで生きていく」というキャッチコピーとか、「好きだからこそ苦しい時も続けられました」という成功者の金言を見聞きしていると、そういった動機の純粋性に囚われてしまうような気がしちゃうんです。

でも、自分のこの決断がそういった純度100%の思いじゃなくても別に良くない?ってふと思いました。きっかけは確実に『何様』(朝井リョウ)です。さては本に影響受けすぎか?

「うれしいって本気で思った一秒くらいあったでしょ?すぐ別の気持ちに呑み込まれたのかもしれないけどさ、でも、その一秒だって誠実のうちだと思うよ」

『何様』より

周りに負けたくないとか、すごいって思われたいとか、他人軸と呼ばれるような、いわゆる自己啓発界隈からは叩かれてしまうような、そういうちょっとダサくて、人生の先輩とか、本当に好きなことで生きている人からしたら理解されないような感情もセットにしたまま進んでいけば良いんだと気づいたんです。だってその感情はもう捨てられないから。

もちろん、こういったもの(他人軸)だけになってしまうのは不健全ですからね。そこはちゃんと分かってますよ。承認欲求は自分で処理しろってひげだんも言ってますからね。

思えばDJライブも、楽しいと少しでも思っている自分がいるなら、それは楽しい出来事だと捉えられる。逆も然りなんだけど、時にはそんな自分を無理してでも探す作業も必要なんじゃないでしょうか。妥協とはまた別で。

そして、「動機が純粋じゃないじゃん!」というのは、うまくいかない現状に対する逃げのような感情であって、都合よく言い訳をしているんだなとも思いました。なかなか前に進まない状況から目を背けて、回避するための道を探すために前提を疑ってしまうんだなと。

こんな風な自分の好きじゃない部分をなるべく客観的に理解して受け入れてあげて、邪魔な時はなるべく押し殺して、得意じゃない自分の一面でも必要な時は使う。それでも、いや、だからこそ「本気の一秒」を守れるのかもしれません。



あとがき
このnote最初は全然違う方向性で書いていたのですが、書いているうちに色々と考えがとっ散らかって、何度も書き直した結果、想定外の方向に進みました。まとめはポエミーになりましたが、この恥ずかしさこそが自分の嫌なところを認めてあげるということで、少しでも共感してもらえたら嬉しいなと思っています。

いいなと思ったら応援しよう!