〈無限の生〉の敗北(挫折)とはなにか――【用語集】『〈自己完結社会〉の成立』
〈無限の生〉の敗北(挫折) 【むげんのせいのはいぼく】
現実の外部にある理念から出発して、そのあるべき理念に相応しく現実は改変されるべきだと考える〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、人間存在には人間である限り避けられない物事がある(〈有限の生〉の五つの原則)という現実を前に必ず挫折するということ。
そしてその挫折に際しては、理念を実現させようと足掻けば足掻くほどに、かえって理念とは異なる現実を絶え間なく否定し続けなければならない「無間地獄」の苦しみとともに、あるべき理念が実現しない責任を人間存在そのものや自分自身に求めることによる自縄自縛の苦しみ(「この私」(人類)が“未熟”であるから、“怠惰”であるから、“愚か”であるから、あるいは“根本的な欠陥を持つ存在”だからだ…etc.)に陥ることになる。
注目すべきは、「現実を否定する理想」は、あまりに現実離れしたものである場合には、かえって人々をそれほど苦しめないということである。そうではなく、想定された理念がある面では実現する、または実現してもおかしくないと人々が認識するようになればなるほどに、人々の苦しみもまた深刻なものになる。
実際、「存在論的自由」の理想は、現実問題として、人々が伝統や慣習のなかに深く埋め込まれ、隣人との〈共同〉が文字通り避けられなかった時代においては、実存的な苦しみをそれほどもたらさなかった。
しかし〈生活世界〉の構造転換が進んで「〈ユーザー〉としての生」が拡大し、住むべき場所、携わるべき仕事、関わるべき他者など、個人的な〈生〉を形作るあらゆる事柄が自発性と自由選択に基づいてしかるべきだと認識される時代になると、人々はかえって「存在論的抑圧」に敏感になり、自発性と自由選択が制限されることに強い憤りを感じるようになる。
ここでの問題の本質とは、〈無限の生〉が提示してきた人間的理想と、われわれが直面する人間的現実との間に生じたとてつもない乖離にわれわれが引き裂かれていること、「意のままになる生」こそが「正常」であると信じてきた人々は、そこで「意のままにならない生」とともに生きるということの意味、そしてそのための術というものを、何ひとつ獲得せずに生きてきたことによる。
「熱鉄の寓話」と「殺生嫌いの寓話」は、いずれも一連の問題を、寓話を用いて説明したものである。
このページでは、筆者が2021年に刊行した『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(上巻/下巻)』(農林統計出版)に登場する用語(キーワード)についての概略、および他の用語との関係について説明したウェブ版の用語集のnote版です。
(現在リンク先は、すべてウェブ版を借用していますが、徐々にnote版に切り替えていく予定です。