持続可能性は何を持続させるのか――「地球1個分」をめぐって環境哲学的に考える
ここでは、2022年にAndTech社から刊行されている『環境配慮材料』(vol.4)に投稿した記事について再掲しています。
はじめに
持続可能な開発目標(SDGs)を中心として、時代はいま第3次環境ブームのただなかにある。そのため読者も、持続可能性やサステイナビリティといった言葉を耳にしたことがあるだろう。SDGsとは、ミレニアム開発目標(MDGs)の後継として、2015年に国連で採択された国際的な行動計画のことを指し、そこでは環境問題や貧困問題などを念頭に、人類が2030年までに達成すべき17の目標と169のターゲットがあげられている(1)。
とはいえ読者は、次のように考えたことはあるだろうか。私たちは持続可能性が大事だと主張するが、はたしてそれは“何を”持続させることを指しているのだろうかと――。例えばそれは、人類の持続を指しているのだろうか、それともいまある自然生態系の持続を指しているのだろうか。またそれは、いまの生活水準を持続させ、いまある成長や発展を持続させることを目指しているのだろうか。それとも人類だれもが分け隔てなく先進国水準の生活を送れることを目指しているのだろうか。あるいは私たちのあり方が根本的に持続不可能であるとの認識から、現在とはまったく異なるあり方を目指しているのだろうか。
実は、この問いに答えることはかなり難しい。というのも、今日語られる持続可能性の実質においては、貧困や格差の解消が大事、経済成長も大事、環境保護も頑張ろう、「全部大事だね」といった具合に、とにかく社会通念上良しとされていることが無造作に詰め込まれ、その本質がどこにあるのかが見えにくくなっているからである。
本論では、この「持続可能性とは何を持続させるのか」という問いから出発し、いくつかの思考実験を交えながら環境哲学的に考えていく。そして今日の持続可能性概念が映しだす未来、つまり私たちがいかなる世界とへ向かっているのかについて考えてみることにしよう。
1. 「地球1個分」とは何か
1.1 人新世とエコロジカル・フットプリント
最初に注目してみたいのは、そもそもなぜ、私たちは持続可能性を問題にしなければならなくなったのかということである。例えばいま地球では、環境劣化が進むと同時に災害のリスクが増大しているという。そしてその背後には気候変動があり、具体的には、地球全体の平均気温上昇が産業革命時に比べて2℃を超えると、その被害は甚大なものになるとされている。しかしここで目を向けたいのは、より本質的な問題である。
例えば近年、人新世という言葉が流行している。人新世とは、オゾン層の研究でノーベル賞を受賞したP・クルッツェンが2000年に提唱した概念で、人類の多大な影響力を考えると、私たちは産業革命以降、すでにまったく新しい別の地質年代へと移行したと考えるべきだとする概念である(2)。ある研究によれば、人類が生みだす人工物の総量は、20世紀初頭には生物総重量の3%に過ぎなかったものの、2020年頃になってついにその総重量を上回るとされている(3)。
想像してみてほしい。いまから数億年後に人類以外の知的生命体が誕生し、私たちと同じように知的関心から地層の発掘を行うと仮定しよう。すると彼らは奇妙な物質によって埋め尽くされた特異な地層を発見することになる。そのとき彼らは、その物質が過去に存在したホモサピエンスというたった一種の生物によって造りだされたものだと知って、驚き呆れるに違いない――。
ここから私たちは、人類が地球環境に対して非常に大きな影響を与える存在になっていることを実感することができる。では、人類が与えている環境負荷とは実際どの程度のものなのだろうか。ここで参考になるのが、エコロジカル・フットプリントという指標である。
これは環境負荷を土地面積に換算したもので、特定の人々の生活を成立させるために必要な資源の量を、耕作地、牧草地、森林地、漁場、CO2吸収源、生産能力阻害地の合計として表現する。現実に存在する土地面積は限られているため、両者を比較することで人類全体の環境負荷を推測することができるのである(4)。
研究によれば、2018年の段階で全人類のエコロジカル・フットプリントは、全生物生産力の1.75倍となっており、この時点で私たちは、自分たちが「地球1個分」をはるかに超過した状態で生活していることを理解できる。しかも人々の間には相当の格差があったうえでのこの状態である。実際、全生物生産力121億グローバル・ヘクタール(グローバル・ヘクタールは、平均的な生産力を持つ土地1ヘクタールを表す単位)を全人口76億人で割れば、1人あたりに割り当て可能な土地面積が約1.6グローバル・ヘクタールであるということも分かる。ところが同年のアメリカ人1人あたりの平均的なエコロジカル・フットプリントは8.1グローバル・ヘクタール、日本人の場合でも4.6グローバル・ヘクタールとなっている。
このことは何を意味するのだろうか。一言で述べるとするなら、世界の全員がアメリカ人と同じ生活をすると、地球がおよそあと4つ必要、世界の全員が日本人と同じ生活をすると、地球がおよそあと2つ必要になるということである。
1.2 「地球1個」では足りないのか
もっともこのような話をしてしまうと、私たちは話の大きさに圧倒されて、そこから思考停止に陥ってしまうかもしれない。
例えば次のように言う人もいる。今日の事態は人類の際限のない欲望がもたらしたものであり、私たちがそうした欲望を持つ限り、こうした状況もまた避けようがないというようにである。しかしこうした主張は乱暴すぎる。というのも、何ものかを愛したいという感情も、より良い社会を築きたいという人々の願いも、ある面では人間が持つ根源的な欲望であると言えるからである。
それよりも私たちは、グローバル社会を生きる人々ひとりひとりの心理的な側面に目を向けてみる必要がある。
例えば先進国以外の地域に住む人々からすれば、自分たちも先進国並みの生活をしたいと考えるのは当然である。日々インターネットを通じてもたらされる豊かな生活へのイメージは、憧れと羨望とをますます引き立てるに違いない。しかし先進国は先進国で、グローバルな競争を勝ち抜くためにはイノベーションが求められる。暮らしを守り、利子を支払い、国内に抱えた格差を是正させていくためには経済成長が求められる。たとえ1国だけで成長を抑えたとしても、周囲が成長を続けているなら、結局はその国だけが貧しくなるだろう。
こうしてイノベーションや経済成長が、先進国側の標準そのものを引き上げていく。そしてその結果、先進国外の人々が求める水準もまた引き上げられることになるのである。私たちは、たとえ知識の上では地球環境の有限性を理解していても、こうした成長と発展を求める圧力にひとりひとりが曝されている。貧困や格差の解消も大事、経済成長も大事、環境保護も頑張ろう、「全部大事だね」といった方向性に持続可能性概念が傾いていくのは、こうした人々の心理が反映された結果でもあるのである(5)。
2. 私たちにとって“持続”とは、“いま”の持続のことを指している
2.1 イースター島の寓話
とはいえ、私たちが「地球1個分」を超過している現実は、やはり深刻なものだとはいえないだろうか。
例えばエコロジー経済学には、定常状態という考え方がある(6)。これは、私たちの社会が使用し、廃棄している資源の量が、それを支えている自然生態系の生産力と浄化能力の容量に収まっていることを表す概念である。つまり「地球1個分」を超過した状態とは、この定常状態が破綻していることを意味している。エコロジカル・フットプリントの研究者たちによれは、この超過分は自然資本それ自体の切り崩し、つまり節度ある使い方をすれば将来にわたって恩恵を与えてくれるはずの自然そのものを、いまの私たちが直ちに使い切ることによって賄われているとされているのである。
このことと関連して、「イースター島の寓話」として知られる有名なエピソードがある(7)。
イースター島は南米チリの沖合にある島で、モアイと呼ばれる人面型の巨石群でもよく知られている。この島が環境分野で有名になったのは、かつてこの島に存在した巨石文明が、環境破壊によって滅びた可能性があると指摘されているためである。
事態は次のようだったらしい。かつてこの島には森林が生い茂り、豊かな植生に支えられた巨石文明が栄えていた。ところが部族間で祭祀の競争が加熱し、巨石を運ぶために大量の森林が伐採されるようになる。人々は環境の劣化に気づいていながら、それでも競争を止めることができなかった。そして植生が回復不能なまでに破壊されると、人々は日々の燃料にも事欠くようになり、土壌の劣化によって十分な食糧さえ確保することが難しくなっていった。島を脱出しようにも、カヌーを造るための資材がない。こうして人々はわずかに残った資源をめぐって殺し合うことになり、ついにはかつての文明の記憶さえも失われてしまった、ということである。
このエピソードが「寓話」として語られるのは、この島で生じたことが、そのままグローバルな競争に明け暮れる現代人にもあてはまるように見えるためである。イースター島の人々が島を脱出できなかったように、少なくともいまの私たちは地球の外に出て行くことができない。
再び想像してみよう。環境が激変した未来において、仮に地球の半分が人間の住めない土地になってしまったとしたら、そこで私たちは何を目撃することになるのだろうか。人間はしばしば、自然の論理以上に人間の論理を優先してしまう。C・ポンティングの言葉を借りるのなら、この寓話は、私たちがどれほど環境に依存して生きているのか、またその環境が回復不能なまでに破壊されたときに何が起きるのか、ということを私たちに思いださせてくれるのである。
2.2 脱成長という選択
このように見ていくと、持続可能な社会とは、ここでの「地球1個分」で成立可能な人間社会のことを指しているということにはならないだろうか。実はまさに、そのように考えている人々がいる。そしてその代表格とも呼べるものが、脱成長という考え方である。
脱成長をめぐっては、1972年のローマ・クラブによる『成長の限界』以来、長い議論が重ねられてきた。多少の違いはあるものの、例えば自然エネルギーと自足的なコミュニティを新しい社会の基盤とすること、経済成長によって取りこぼされてきた価値基準や、現在の幸福の尺度を見直し、物質的な豊かさとは異なる精神的な豊かさを目指すこと、経済成長がなくても存続可能な社会の仕組みは実現できると考えている点では一致している(8)。
もっとも、私たちが本当に脱成長を実現したいと望むのなら、私たちは現在とは根本的に異なる生活様式、社会様式へと至る覚悟が求められる。実際S・ラトゥーシュは、少なくとも私たちが、物質的には1960年代の水準を目安にしなければならないこと、斎藤幸平の場合は、私的所有を含む市場経済システムそのものを根本的に変革する必要があることを述べている。
加えて、それ以上に筆者が気になることがある。それは脱成長を求める人々のほぼすべてが、その達成の条件として、隣人同士の相互扶助に大きな期待を寄せていることである。
確かに「助け合い」と聞けば、一般的には良いイメージが連想される。しかし隣人たちから気遣われ、助けられるということは、私たちにも隣人たちを気遣い、助ける義務が生じるということを意味している(9)。プライベートな時空間が保障され、何でも自己決定できることがあたり前になってきた人々が、これまでモノやサービスによって満たしてきたことを、はたして再び対人的な助け合いによって満たしていくことに耐えられるのだろうか。ここには現代社会特有とも言える、対人的な負担に対する人々の耐性の問題があるのである。
2.3 惑星改造という選択
とはいえ目を向けるべきことは、それ以前のところにあるのかもしれない。というのも、いまの私たちが向かっているのは、「地球1個分」の生活でも、脱成長でもなく、実質的にはその反対方向だからである。
このことを象徴するのは、近年注目を集めているジオエンジニアリングの存在である。ジオエンジニアリングとは、とりわけ気候変動への対策として、温室効果ガスの排出を削減する緩和策でも、災害がもたらす被害を予防する適応策でもなく、地球環境そのものを人為的に操作することで問題解決を試みようとする技術のことを指している(10)。
なかでもバイオマスCO2貯留技術は、この先実現する可能性が高いもののひとつである。そこではバイオマスを用いて発電を行いつつ、発生したCO2を海底や地下深くに閉じ込める。実現すれば、排出ゼロを超えて大気中の炭素を除去する技術としても期待できるとされている。賛否が分かれているのは、大気の上空に微少な粒子であるエアロゾルを散布することによって地球を冷やす、成層圏エアロゾル注入技術だろう。火山の噴火によって巻き上げられた塵が、太陽光を遮蔽し、寒冷化を引き起こすメカニズムはよく知られてきた。この技術は、言ってみればそれを人工的にやってしまおうということである。
こうした動向を、読者はどのように考えるだろうか。もちろん現在のジオエンジニアリングには、実現性に乏しいものもあれば、効果が不明瞭なものも多い。しかも対象となるのは地球そのものであるため、リスクが大きく失敗は許されない。それでもこの先10年、20年にわたってこの分野が開拓され、新たな技術が登場してくることはおそらく間違いない。
ここで重要なことは、こうした動向のなかに、今日私たちが持続可能性に寄せている、ある種の潜在的な思考がよく現れているということである。つまり私たちは「地球1個分」にも、脱成長にも向かっていない。私たちが求めているのは、社会を地球に合わせるという意味での持続可能性ではなく、まさしく地球を社会に合わせるという意味での持続可能性だということである。
私たちの関心は、結局のところ現在の成長、発展の水準をいかに維持するのかというところに置かれている。このとき地球環境とは、その前に立ち塞がるひとつの障害物でしかないのである。ここで改めて問いかけてみよう。いまの私たちにとって、持続可能性とは何を持続させるものなのだろうか。その答えは、“いま”を持続させることなのである。
3. 持続可能性は、人々が持続的に振る舞う“システム”を構築することを目指していく
3.1 AIがもたらす、持続可能なシステムという未来
本論では「地球1個分」の考察からはじめ、私たちの求める持続可能性が、実のところ“いま”の持続のことを指しているということについて見てきた。ここから私たちはさらに想像力を働かせ、視点を100年先の未来にまで拡張させてみよう。つまりこうした持続可能性が、この先いかなる人間の未来をもたらすのかということについて考えてみるのである。
最初の手がかりとなるのは、今日目覚ましい発展を遂げている人工知能(AI)技術である。もっともそれは、SF映画にあるような、心を持ったAIが誕生したり、ロボットと人間の間で戦争が起こったりするといったことではない。少なくとも現在のAI技術は、何でもできる汎用型の知能ではないからである。
ディープ・ラーニングで知られる今日のAIの強みは、あくまでパターン認識にある。つまり膨大な情報のなかから有意なデータの構造を認識し、特定の対象に対して学習に基づく「最適解」を提案することができるということである(11)。この技術を応用して、AIは囲碁で人間を打ち負かすこともできるし、車の自動運転をすることもできる。しかし前者ができるのは囲碁だけであり、後者ができるのは車の運転だけだ、というわけである。
とはいえAIが導く「最適解」が、しばしば専門家でも思いつかない意外なものとなり、ときに熟達した人々の判断よりも正確な場合があることは重要である。Y・ハラリによれば、私たちはこの先、ますますこうした自動化されたアルゴリズムに依存していく可能性があるという。そしてその先に待っているのは、アルゴリズムを管理する一部の超エリート階級と、アルゴリズムに依存するだけで何の期待もされない無用者階級とに二分された、超階級社会であるという(12)。
もちろん私たちの未来について、確定的なことは何も言えないだろう。しかしこの先私たちが、ますますこうしたシステムを高度化させ、同時にますますこうしたシステムへの依存を深めていくことは十分に考えられる。問題は、ここで言う“システムへの依存”が何を意味するのかということである。
例えば想像してみてほしい。車の自動運転が高度に発達した社会では、人々は目的地へ着くためのルートに悩む必要もなければ、安全のための細やかな注意も必要ない。ただただAIに目的地を告げ、すべてをAIに任せて、自分は目的地で何を楽しむのかを想像してさえいれば良いのである。そのように考えれば、いまの私たちが日々の行動をいちいち気にかけ、例えば何かを購入する度に、それが野生動物や貧困層を搾取してはいないかと神経質にならなければならないというのは、あまりに非効率的だとは言えないか。それならいっそのこと、 AIの力を借りつつ、普通の人々が環境のことを気にかけなくとも、人々が何気なく行う行動が結果的に環境負荷の少ないものとなるように、社会システムの方を設計してみてはどうだろう――。
こうした想像は、はたして突拍子もないことなのだろうか。しかしこうした思考方法は、自動化が進む現代社会の方向性に対して間違いなく符合している。
実際私たちは、どこかで人々の意識や行動ほどあてにならないものはないと考えはじめてはいないだろうか。世界の技術者たちによって、いつか環境負荷を劇的に低下させる画期的な技術が誕生することを心待ちにしてはいないだろうか。ここから私たちは、この先持続可能性概念に加わるだろう、もうひとつの“持続”の意味について感じ取ることができるのである。それはこの先私たちが、人々を誘導、管理していく持続可能な“システム”の構築を目指すようになるだろうということである。
3.2 大破綻
では、こうした持続可能性が拡大していくとき、私たちにはいかなる未来が待ち受けているのだろうか。
最初に想定できるのは、“いま”を持続させ、持続可能な“システム”を構築するという私たち試みが、失敗してしまう未来の姿である。繰り返すように、私たちはすでに「地球1個分」を超過した社会を生きている。ジオエンジニアリングも、持続可能に振る舞うシステムも、結局は私たちが都合良く思い描いただけの幻想なのかもしれない。そうだとしたら、どうなるのだろうか。
例えば、プラネタリー・バウンダリーという考え方がある(13)。これは、現在の地球環境が安定した状態にあるためにはいくつかの閾値が存在しており、変化や圧力が一定の段階を超えると、地球環境は急激に変化して二度ともとの形には戻らなくなることを示したものである。ここから分かるのは、最も恐ろしい環境の変化とは、徐々に起こるものではなく、私たちが予期しないタイミングで、また予想外の形で起こるものだということである。そして研究者たちによれば、私たちはプラネタリー・バウンダリーを表す9つの指標のうち、すでに少なくとも3つの指標で閾値を超えてしまっているという。
ならば私たちが直面する“大破綻”とは、次のようなものになるのかもしれない。例えば「イースター島の寓話」がそうであったように、そのとき私たちは、先日まで信じて疑わなかった日々の“あたり前”が、突如として“あたり前”ではなくなっていく様子を目のあたりにすることになる。持続可能だと信じてきたはずのシステムが破綻するとき、私たちは、言ってみれば荒廃しきった大地のうえに無防備なまま放りだされることになる。高度なシステムに依存しきってきた人々が、いまさら生身の人間の力だけを頼りに、はたしてその難局を乗り切ることができるのだろうか。
3.3 「カプセル社会」のユートピア、「脳人間」のユートピア
もっとも私たちは、こうした破局とは異なり、“いま”を持続させ、持続可能な“システム”を構築していく試みが、成功した場合の未来についても考えておく必要があるだろう(14)。この半世紀に私たちが体験してきたように、人間の技術的な潜在力は、私たちが想像した以上に高い可能性があるからである。
再び想像してみよう。例えば空を覆うほどの巨大なカプセルがあり、そのカプセルのなかには、私たちが思い描く理想的な都市空間とともに、理想的な自然生態系が再現されている。ここでは持続可能に振る舞うシステムを通じて、人間と自然の共生が完璧に演出されているのである。しかしカプセルの一歩外側には、人間がまともに生活できない不毛な世界が一面に広がっている。いわば「カプセル社会」のユートピアである。
違う角度から考えてみよう。仮にジオエンジニアリングが大成功を収めるとするなら、私たちは惑星の荒廃自体を止められるかもしれない。つまり空調管理された巨大なビルのように、惑星全体を持続可能なシステムによって完全に管理できるようにしてしまうのである。
そのとき私たちの暮らしはどうなっているのだろうか。おそらく大半の人々は、もはや環境について意識する必要もなければ、知る必要もないだろう。人々の行動の後始末はシステムが上手に処理してくれるので、人々はただ自らの幸福と自己実現のことだけを考えていればそれで良いからである。またその世界では、惑星と同じように、私たちの身体もまた操作可能なものになっているかもしれない。
増田敬祐が示唆したように、考えてみれば、人類が環境に負荷をかけているのは、私たちが身体を持っているせいではないだろうか(15)。ならば私たちは、生きる舞台を完全にバーチャル世界へと移行させ、実質的な身体は“脳だけ”になってみるというのが最善ではないだろうか。そうすれば、私たちは生命維持装置を作動させる電力だけを必要とする身となり、その分環境を汚すこともなければ、食料という形で他の生き物たちを殺める必要もなくなるからである。言ってみれば「脳人間」のユートピアである。
だが、本当にそれで良いのだろうか。私たちがそれを望まないと言うのであれば、私たちはいったいどこで道を間違えたことになるのだろうか――。
おわりに
この小論では、「持続可能性は何を持続させるのか」という問いから出発し、「地球1個分」の生活とは何か、そして今日の持続可能性が映しだす人間の未来とはいかなるものになるのかについて考察を進めてきた。
ここで読者に考えてもらいたかったことは大きく二つある。
ひとつ目は、持続可能性やSDGsがあらゆる場面で語られる今日だからこそ、私たちはいま一度その原点に立ち返ってみる必要があるということである。
気候変動があまりに深刻であることもあって、私たちはつい平均気温上昇を2℃以下に保つことや、再生エネルギーを普及させることばかりに注目しがちになっている。しかし根本にあるのは、依然としてこの「地球1個分」をめぐる問題であるということである。人々が持続可能性という言葉に魅力を感じるのは、私たちがどこかで現在の世界のあり方が“持続不可能”だと感じているからではないだろうか。ならばなおさら、私たちはこのことの意味について繰り返し問いかけてみる必要があるだろう。
とはいえ筆者には、同時に私たちがどう頑張っても「地球1個分」にはたどり着けそうもないという、現代社会が抱える無力感についても理解できる部分がある。だからこそ本論では、単純に脱成長こそが未来の鍵であるとは論じてこなかった。はたして私たちは、すでに「地球1個分」で生きることを諦めてしまっているのだろうか――。
本論の後半で見てきたように、この先私たちは大破綻を迎えてしまうかもしれないし、そうはならないかもしれない。そこで読者に考えてもらいたかったふたつ目のことは、“いま”の持続と、持続可能な“システム”の構築という試みが、仮にこの先成功を収めたとしても、その未来がバラ色であるとは限らないということである。
ここで描いた「カプセル社会」や「脳人間」の姿は、科学的な未来予測というよりも、物事の本質を映しだすための比喩に近いものである。だが、持続可能性だろうと、SDGsだろうと、私たちが潜在的に求めている世界とは、実はこのようなものではないのかという皮肉もここには込められている。
私たちはこの先、本格的なジオエンジニアリングに頼らなければならなくなる日を迎えることになるかもしれない。そのとき私たちは、改めて「地球1個分」の問題を思いだすことになるだろう。そしてもし、私たちが「カプセル社会」や「脳人間」のユートピアを望まないというのであれば、私たちは人類として、あるいは人間存在として、何を望んでいるのかということもまた問われることになる。
私たちはこの先、無限の存在として無限の世界を生きることに理想や栄光を見いだすのだろうか。それとも有限の存在として、有限な世界を生きることに喜びや美を見いだすのだろうか。その答えはまだ、誰にも分からない。
注
1) 持続可能な開発目標(SDGs)の詳細については、「国連広報センター」のサイトを参照のこと(https://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/sustainable_development/2030agenda/)。
2) 人新世の概念については、ボヌイユ/フレソズ(2018)を参照のこと。また人新世概念には、更新世以来安定した気候条件に恵まれてきた完新世が終焉し、私たちは不安定で予測が難しい新たな地質年代へと移行しつつあること、そしてその引き金を引いたのはまさしく人類自身であったとの含みがある。
3) この研究成果はイスラエルの研究機関によるもので、2020年12月に『ネイチャー』誌に掲載された(https://www.nature.com/articles/s41586-020-3010-5)。
4) エコロジカル・フットプリントの基本的な考え方については、ワケナゲル/リース(2004)を参照。ここに掲載したデータについては、グローバル・フットプリント・ネットワークのサイトを参照のこと(https://data.footprintnetwork.org/)。
5) 持続可能性概念の出発点は、もともとローマ・クラブの『成長の限界』にあったが、ブルントラント報告からリオデジャネイロサミットを経て、今日に至るまで段階的に曖昧な概念へと変容してきた経緯がある。詳しくは上柿(2010)を参照のこと。
6) 定常状態の概念については、デイリー(2005)を参照のこと。
7) ここでは、ポンティング(1994)による説明を使用した。
8) 代表的なものとして、後述するラトゥーシュ(2020)、斎藤(2020)を参照のこと。
9) 隣人たちは、善い人ばかりとは限らないし、気の合う人ばかりとも限らない。例えば高度経済成長期の人々が憧れたのは、単純に便利な生活というだけでなく、気遣いと助け合いとが求められる濃密な人間関係から自由になることでもあった。ここにあるのは、人々が利己的かどうか、道徳感情が高いかどうかとはまったく別の次元の問題である。
10) 杉山昌広(2011)には、実現性や効果への期待はさまざまであるものの、他にも宇宙太陽光シールド、低層雲の反射率増加、鉄散布による海洋肥沃化、二酸化炭素捕集装置(直接空気回収)などの技術が取りあげられている。
11) ディープ・ラーニングや第3世代AIの特徴については、松尾(2015)を参照のこと。
12) 詳しくは、ハラリ(2018)を参照のこと。また、情報技術のなかでの人間存在の揺らぎの問題については、吉田(2021)の分析も参照のこと。
13) ロックストローム/クルム(2018)は、プラネタリー・バンダリーとして、気候変動、窒素/リンの生物地球化学的循環の破壊、生物多様性の破壊、土地利用の変化、新規化学物質、オゾン層の破壊、大気エアロゾルの負荷、海洋の酸性化、淡水の消費の9つの指標をあげている。閾値を超えているとされるのは、このうちの最初の3つ、ないしは4つである。
14) 「カプセル社会」や「脳人間」をはじめ、ここで展開した人間の未来に関する考察は、上柿(2021)ですでに行ったものを今回のテーマにあわせて再構成したものである。
15) 増田(2020)は、〈環境からの自由〉を望んだ人々が、〈環境への自由〉をへて、やがて〈環境にいない自由〉に到達していく様子を哲学的に描いている。それは、環境に負荷を与えるという自らの存在を背負いきれなくなった人々が直面する、「あるべき人間」としての末路である。
参考文献
1) 上柿崇英、「三つの“持続不可能性”」、『サステイナビリティとエコ・フィロソフィ――西洋と東洋の対話から』、竹村牧男/中川光弘編、ノンブル社(2010)
2) 上柿崇英、『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(下)』、農林統計出版(2021)
3) 斎藤幸平、『人新世の「資本論」』、集英社新書(2020)
4) 杉山昌広、『気候工学入門――新たな温暖化対策ジオエンジニアリング』、日刊工業新聞社(2011)
5) 増田敬祐、「存在の耐えきれない重さ――環境における他律の危機について」、『現代人間学・人間存在論研究』、第4号、pp.313-378、大阪府府立大学環境哲学・人間学研究所(2020)
6) 松尾豊、『人工知能は人間を超えるか――ディープラーニングの先にあるもの』角川EPUB選書(2015)
7) 吉田健彦、『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』、共和国(2021)
8) H・E・デイリー、『持続可能な発展の経済学』、新田功/藏本忍/大森正之訳、みすず書房(2005)
9) Y・ハラリ、『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来(下)』、柴田裕之訳、河出書房新社(2018)
10) C・ボヌイユ/J=B・フレソズ、『人新世とは何か――〈地球と人類の時代〉の思想史』、野坂しおり訳、青土社(2018)
11) C・ポンティング、『緑の世界史(上)』、石弘之/京都大学環境史研究会訳、朝日新聞社(1994)
12) S・ラトゥーシュ、『脱成長』、中野佳裕訳、白水社(2020)
13) J・ロックストローム/M・クルム『小さな地球の大きな世界――プラネタリー・バウンダリーと持続可能な開発』、武内和彦/石井菜穂子監修、谷淳也/森秀行ほか訳、丸善出版(2018)
14) M・ワケナゲル/W・リース、『エコロジカル・フットプリント――地球環境持続のための実践プランニング・ツール』、和田喜彦監訳/池田真理訳、合同出版(2004)
(出典)上柿崇英(2022c)「持続可能性は何を持続させるのか――「地球1個分」をめぐって環境哲学的に考える」『環境配慮型材料』、AndTech、 vol.4、pp.77-86