京島の10月|8. (誰の)ものづくり、(誰の)まちづくり
凸工所は休業日だが、外部でラボ長として話をした。以前、京島の街歩きイベント中に知り合った方に誘われ、全国まちづくり会議2023内の「町工場から始まるイノベーション」というセッションで喋ることになったのだ。工房自体の運営はまだ日が浅く、模索している部分も多いため、全国各地のものづくり施設の事例などを併せて紹介した。
ライターとして各地の事例取材は続けているが、それをこうした場で紹介するには、他人のふんどしで相撲を取るようなもどかしさが伴う。シンクタンクやコンサルタントでもなく、何かちょっと知ってる人という中途半端な立ち位置ゆえの気持ち悪さだろうか。凸工所を運営するようになって、ようやく自分の体験と紐付けて話せるようになった。話題提供として、前職時代に関わっていた産学連携プロジェクトを土壇場で入れたのだが、やはりそのパートだけは少し歯が浮いた。
ディスカッションで印象に残ったのは、ものづくり・まちづくりという広い括りのままならなさである。日曜大工、DIYの趣味的行為から、ファブ施設のようなシェア工房の取り組み。町工場を開くオープンファクトリーのようなイベントや、事業継承や資金繰りの問題、さらには世界経済の動向や国家戦略まで。それぞれ粒度が異なり、たとえば3Dプリンターで綺麗な作品を作る喜びと、ユニコーン企業が生み出す経済効果は、同じ土俵で議論するにはいささか距離が遠すぎる。
自分が今感じている、街中の手の届く範囲で自活していく喜びと、それを経済に結び付けて継続させていくこと。そのギャップをまだうまく言葉で表せない。墨田区役所の方が議論に加わってくれたことや、研究会として墨田区の工場の歴史を網羅していたことなどを見るに、得手不得手や役割分担はあって然るべきなのだろう。
夜はEXPOの企画『ほそぼそ芸術 ささやかな天才、神山恭昭』の上映会に参加。日が落ちた稽古場は20人ほどの人で埋まっていた。毎晩のように人が集まり、産業や街や芸術の話をする様子は、寄り合いという表現がしっくりくる。上映から30分ほどして、寝袋にくるまってスヤスヤと眠る少年らの姿も、その身近さを象徴していた。
映画の舞台は愛媛県松山市。絵日記作家として活動する神山さんの作品が生まれた背景や、彼の人となりを、周囲の人々のインタビューを通じて描くドキュメンタリーだ。神山さんが幼少期を過ごした長屋が映し出されたり、東京らしからぬ会場の雰囲気に驚かれたりと、京島との親和性も随所に感じられた。
神山さんの作品は、幼少期を回顧した絵日記を始め、自分が興味を持ったことを調べる私的研究、地下室への憧れを地上や卓上に持ち出すための「(卓上)地上式地下室」など、ごく個人的な衝動に紐づいていた。近所の人と話しながら木を彫ったり、初めて会った人を勝手に組織の会長にしたり。半径数メートル、あるいは街の中というスケールで何十年も作品を「ほそぼそ」作り続ける。映画というパッケージを通じて、神山さんのものづくりと、それを生み出すまちの姿が目に焼き付いた。
昨晩行われた別のイベントでも、墨田区のものづくりとは何だろうかという話が上がっていた。立場や施設や地域は多様だが、結局は全て誰か個人が生み出すものであって、どんな括りでそれを形容するかは、勝手に名乗っていいのではないかと、そんな一幕があった。ものづくりもまちづくりも、広すぎる視点は芯を食わない。今の筆者は、自分という一個人から思考を始めるのが良さそうだ。
このnoteは「すみだ向島EXPO2023」内の企画、日誌「京島の10月」として、淺野義弘(京島共同凸工所)によって書かれているものです。
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