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京島の10月|19. 人は走り木々は停まる

今日も今日とて取材と執筆。月毎に担当している件数はさほど変わっていないはずだが、無性に忙しく感じるのは、家に帰ってからすべきことが増えたからだろうか。

別の場所に行って夜帰ってくると、時々、出稼ぎのような感覚になる。もちろん京島の中でも商売をする身ではあるのだが、まだそれだけでは食べていけないし、別の場所に行く方が実入りが良いこともある。こういう話は東京と地方の働き方みたいな文脈で見かけることも多い。お金を稼ぐための商売と、豊かに暮らすための商売は、必ずしもイコールではないのかもしれない。わからないけれど。

22時前にようやく帰宅し、荷物を置き、そのままスマホ一つで外に出る。ここに書く内容を探すのもあるが、自分に課した1日1万歩というノルマを達成する目的の方が強い。ふらりと歩き始めると、何の気なしに走り出したくなり、数年か数ヶ月ぶりかの軽いランニングになった。

静かで、平らで、うねうねした道だな、と改めて感じる。近所の巨大な滑り台のある公園では、中学生か高校生ぐらいの子らが、夜の時間を過ごしていた。安直だが、青春って感じだ。

軽快な足取りはものの数分でゼイゼイとした吐息に代わり、元のペースで夜の街を歩く。道路越しに見える、EXPOの展示会場でもある建物からは明かりが漏れていた。1階はシースルーで照らされ、2階は生活空間なのか、窓越しにぼんやりとした光。

その手前には当たり前のような顔をして、バス停が並んでいるのがおかしかった。バス停から徒歩0分の会場あるいは家屋。○○宅前のような表記でこそないが、改めてすごい地形だなと感じる。

そのままぐるりと歩き続け、あの辺りには誰々が住んでいるだとか、あのお店はこの時間もやってるなとか、静かな街の中で自分の知る場所が増えたなと、この半年ほどの積み重ねを思う。

まだ行けていないお店も、行かないうちに移転した場所も、建物ごとなくなってしまったところもある。また半年後に夜廻りするときには、果たしてどんなことを思うのだろう。

明治通りのセブンイレブン脇では、いつもの銭湯山車と建造が進む海の家や、いつの間にか現れた器を売る屋台などが身を寄せ合っている。もはや見慣れた光景だが、果たして見慣れたという感覚が正常なのかどうかもわからない。

こんなに堂々と路上に異質なものが置かれているのに、街からは、なんというか、放置されている。明確な案内もないのに、存在が許されている。器が広いのか、無関心なのかわからないが、ちょっとやっぱり変な街だなと思った。

角を曲がり家に向かう道は、いつぞやの閉店して移転するという居酒屋にも繋がっていた。ここからあそこまで何個も建物があるけれど、その全部がなくなるまではどれだけの時間がかかるのだろう。

その後、軽快に自動車や電動スクーターが駆け抜けたとして、移動が早い以上のメリットはあるのだろうか。勿論あるのだろうけど、異質でありながら程よく無視される木々の塊を見たときの、ザワザワした感覚は、きっと今しか体験できないものなのだろう。

このnoteは「すみだ向島EXPO2023」内の企画、日誌「京島の10月」として、淺野義弘(京島共同凸工所)によって書かれているものです。

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