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京島の10月|14. 末席などありはしない

毎年恒例のもの作りイベントMaker Faire Tokyoの取材で、朝から東京ビッグサイトへ。3Dプリントや電子工作を中心に人が乗れるモビリティまで、多様な出展作品を見て回り、そのまま夜にはレポート記事をリリースした。

久しぶりに会う人も、じっくり話を聞きたい展示もたくさんあるのだが、仕事で行くとどうしても足早になってしまう。取材もいいが、来年あたり出展者側にまた戻れたらいいなと思う。できれば、京島共同凸工所の看板を引っさげて。

まともな夕食をとらず曳舟駅に戻ってきたのは夜8時頃。この時間に曲がりくねった道を歩いていると、引っ越す前の冬に通っていた時期を思い出す。何度歩いても正しい道かどうか確信が持てなかった頃が懐かしい。ついぞ一回も行くことがないのも閉店してしまった肉屋を見つつ、キラキラ橘商店街の方へ。道中、廃棄予定の座椅子がスポーツクラブの看板に神々しく照らされていた。

今日はEXPOの企画も多く催されていたようだが「分館の今後を考える会」にだけ参加できた。筆者にとっての分館は、たまに美味しいランチを食べに来る場所であり、合唱団の練習場所でもある。そこで生まれた繋がりに助けられたことも多く、街に馴染むためには欠かせない場所だった。今の業態での営業がそろそろ終わり、マスターも変わろうとする中、この場所をどうやって次に繋いでいくのか——あるいはいかないのか——について議論する場だった。

詳細はここに書くつもりはないが、夜10時を超えてなお20名ほどが出入りしながら言葉を交わしていた。分館の話をすると、必然的に街の話をすることになっていたのが印象的だった。創業当初はクラブのようで近寄りづらかったことや、ある時テレビで取り上げられて話題になったこと、歴代のマスターや日替わりオーナーとのやり取り等々。

筆者のように、その存在に助けられた人もいれば、長年近所住んでいても足を踏み入れたことのない人もいる。お店であり、公民館であり、寄り合いの場所でもある特殊な場所。幾ばくかのお金を払ってでもこの場所があり続けてほしいと思う人が、少なからずいるようだった。

遅れて参加したこともあり、筆者はほとんど傍聴人のように聞いていた。この場所の歴史を聞いていたいという興味もあったが、まだ街で日の浅い自分がとやかく言うのもな、というためらいもなくはなかった。

しかし、ただ長年暮らしていれば、発言しやすいだとか動きやすいだとか、そういう制約は全くないはずだ。本当に何かをしたい、変えたい・変えたくないと思うなら、自分でどう動いて・喋ったっていいはずだ。

傍観者のような立場を決め込んで、後で日記に書けばいいやと思っている自分の立場の中途半端さにどこかムズムズした。全てを晒せるわけでも、時間を割けるわけでもないし、誰かの暮らしを変えたいとも強くは思っていない。そんな自分ができることは一体何なのだろう。 ここで話されていることを取りこぼさず、記録することぐらいならできそうだと思っている。なのに、その場で書記役に挙手できなかったの間の悪さと、一歩引いた立場がちょっと気持ち悪かった。


このnoteは「すみだ向島EXPO2023」内の企画、日誌「京島の10月」として、淺野義弘(京島共同凸工所)によって書かれているものです。

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