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初!ゆるっと対話時間 オフライン

昨日、11/12(火)、「Hoteyesでつながる ゆるっと対話時間」を開催させていただいた。
Hoteyesさんでは、毎回、前半は音楽ライブ、後半は対話というスタイルのイベントを開催させていただいている。
今回、後半には、毎月『ディアローグ』でメンバーの方に開催していただいている「ゆるっと対話時間」を、藤原のファシリテーションで、初めて対面で実施させていただいた。
ファシリテーターとして参加してみての振り返りをしてみようと思う。

「子どもにとって、学校は必要か?必要ではないか?」

このテーマはだいぶ重いテーマだと感じていて、最初は、どれくらい意見交換で考えを深めることができるかが心配だったけれども、教育に関心のある参加者の方が多かったため、参加者の方にはそれぞれの観点でこのテーマについて深く考えていただけたように思う。
ただ、一方で、普段から教育に関心を持って考えていなければなかなか出てこないような意見も多く、教育についての対話に馴染みのない方にとってはちょっとついていくのが難しいと感じられたかもしれないとも思った。
その点については、最大限、一つ一つの意見の意味をみんなで確認して進むように意識してファシリテーションをしたつもりだったけれども、ファシリテーターとしてもっと全員が共通の土俵で安心して対話に参加できるための工夫ができたかもしれない。

また、僕の中ではこの問いはかなり素朴な問いで、「そもそも、子ども自身にとって、学校は必要なものと感じられているのか?」という疑問を出発点にして生まれたものだったけれども、初発の意見では俯瞰的な視点から学校の機能に着目してコメントをする意見が多くあがり、とても興味深かった。
ファシリテーターとしては、途中であえて、素朴な問いに立ち戻って「子どもの立場からしたら」という観点で考えたらどうかという問いかけをしてみたけれども、「子どもの立場からしたら」という観点で考えてみても俯瞰的な視点で考えた結論と同じ結論に達している意見もあがり、それもまた興味深かった。
僕には「俯瞰的な視点」を「子どもの視点」にずらしたらとらえ方が変わってくるのではないかという予想があったけれども、視点をずらしたからといって、必ずしも結論が変わるとは限らず、やはり、「子どもの視点」をとったとしても同じ結論に達するということもあるということは、新しい発見だった。

学校がもし無いのだとしたら、今学校が担っている機能を地域や周りの大人が担うことになるという論点も、とても興味深かった。
子どもにとっては、やはり、何かしらの教育的作用や福祉的作用は必要で、学校がなくてもその機能はいろんな人がいろんな場所で果たしてくれる可能性があるけれども、果たして今の社会にそれは期待できるのかというところについては議論の余地があるという意見については、なるほどと思った。
この意見と同型のものとして、強制力が強く働いてしまいやすい今の学校のあり方が存続するのであれば、それは必要ないということになるのかもしれないけれども、学校が子どもがもっと自由な形で参加できるあり方に変わっていくなら、それは必要ということになるように思うという意見があがっていた。
つまり、この意見は、今の社会が適切な教育環境を用意することができるのかということについて議論の余地があるだけでなく、今の学校が子どもにとって適切な教育環境を用意できるのかというところについても議論の余地があるということを意味しているように思う。

ただ、対話の中では、昔の学校に比べて、今の学校は、かなり選択の自由度が増えてきているように感じるという意見もあがり、もしそうなのだとしたら、学校は、子どもにとっての適切な教育環境になってきているとも考えられる。
一方で、学校の自由度が増すということは、子どもにとって、ちょっと頑張ってみるという挑戦の機会が減るということでもあるかもしれない。
もちろん、過度な頑張らせ過ぎはよくないということは前提とするとして、それでも、ちょっと頑張ってみる機会が減ってきているのだとしたら、それは本当に適切な教育環境になってきていると言えるのかということについては再考の余地があるように思う。

さらに、子どもといっても、集団への参加が極めて難しく完全に家に閉じこもってしまう子どもを想定するのか、集団活動への参加によって自分の能力を最大限に高めることができる子どもを想定するのか、学校に通うことはできるけれども毎日決まった時間に活動に参加することは難しいという子どもを想定するのか、その想定によって、学校や教育は必要かどうか、あるいは、どのような学校や教育が必要かは変わってくるということも、興味深かった。
対話の中では、不登校の子どもや虐待を受けている子どものケースが想定としてあげられたけれども、集団活動への参加によって自分の能力を最大限に高めることができる子どもも一人の子どもなのであって、その子どもの視点からすれば、学校は必要かどうかなんて問われる余地もなく、学校は有意義な場所で必要なものということになるのかもしれない。
もちろん、そのような子どもにとっても、「学校は本当に必要なのか?」という問いを持つこと自体には価値があるとは言えるかもしれないけれども。

…と、いろいろと書いていたら、振り返りが膨れ上がり、さらに、そこに新たに自分が考えたことも入り込んできて、長くなってしまった。
もうちょっと実際に対話であがった意見と自分の意見を切り分けた方が良かったかなと反省しつつ、思考の流れるままに書くことで、その対話の先に僕が持ち帰った「お土産」の部分も共有できるのではないかという思いもあり、今回は、新たに自分が考えたことも入れ込んで書いた。

それと、開催形式についても一つだけ書いておきたい。
やはり対面だと温度感が伝わってとても良いという意見もあり、一方で、対面だと緊張してしまうからオンラインの方が話しやすいという意見もあり、オンラインとオフラインのそれぞれの良さを改めて確認することができた。

最後に、前半の音楽ステージで歌わせていただいた楽曲「木乃伊」より。

冷めてしまったの これでいいのか
冷めてしまったの これでいいのか
進歩したのか 退化したのか
このまま僕は 生きていいのか
藤原 敬「木乃伊」

教員を続けていく中で、また僕の中に、この楽曲「木乃伊」の葛藤が生まれたときには、今回の対話を思い出すことで、たとえ不完全であっても学校で教員として奮闘することには意味があるとそう思えるかもしれない。
一緒に対話に参加してくださった皆さまには、本当に心より感謝したい。

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