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ジャカルタ事件当時の思い出
今年(2024年)の7月20日、「1986年ジャカルタ事件」の実行犯とされた囚人が、東京の府中刑務所で死亡しました。 同時多発テロ事件といえば「9・11事件」(2001年9月11日)が頭に浮かぶ人が多いのですが、私自身の身近かに起こった事件としては 「ジャカルタ事件」も忘れられません。
まだ一部に「冤罪だ」という人たちがいるし、私自身も "職務上知り得た秘密" を守る責任もありますので、全てを書くことはできませんが、当時の私の状況と耳目に触れたことを、ここに記しておきたいと思います。
赴任して一年後・・・・
1986年4月は、私がジャカルタ日本人学校に赴任して一年経ったところで、約50人いる現地採用職員から「順法ストライキ」(実際は残業拒否闘争)を打たれました。私が日本や日本人のエゴを全身にまとって 何でも几帳面にやろうとしたことが、ローカル・スタッフから異議申し立てを受けたわけです。
日本人として「でも、こうするしかないのだ!」という自負心のようなものもありましたが、900人以上の子どもたちを預っている施設ですから、大っぴらに "争いごと" を続けるわけにもいきません。それに地元警察や労働省からも睨まれますので、約1か月かけて 粘り強く話し合いを重ね、なんとか収拾した時には 5月になっていました。
ジャカルタ市街の中央部を南北に走る「タムリン通り」が「スディルマン通り」と名前を変えて、「ガトッスブロト通り」と交差する地点・・・・ いわゆる「スマンギ・インターチェンジ」の脇に、首都警視庁があります。
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(手前の噴水は「歓迎の塔」。その右手は ホテル・インドネシア)
日本人学校は当時、そこからさらに車で 10数分 南に下った「外環状道路計画」の脇、海兵隊の駐屯地前にありました。気の荒い海兵隊員と学校の警備員とは、いつもいざこざが絶えず、冷や冷やの毎日。 因みに、日本人学校の東方約3kmには、警視庁機動捜査隊の駐屯地もありました。
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「外環状道路」になった。右側が海兵隊駐屯地。学校の警備員と海兵隊
との軋轢を避けるため、警備員を海兵隊OBで編成することにした。
レバラン(断食明けの祭り)は イスラム教徒にとって最大の祭りで、その年は5月10日(土)の夜からが "お祭り"・・・・日本の感じで言えば 10日が大晦日、11~13日が "正月三が日" に当たりました。9日頃から、田舎の出身者が一斉に田舎に帰省する "民族大移動" が始まっています。
ジャカルタ市内の人口は 通常の半分以下になり、日本人学校も一週間の休みに入っていました。
アザーンの喧騒の中で
5月14日(水)午前11時頃、お昼のお祈りが始まろうという時刻・・・・ いつものように市内の何百とあるモスクから 「アザーン(礼拝の呼びかけ)」の唱謡がスピーカーで流され、互いに反響交錯してワンワンと響き渡っていました。
突然、独立記念公園(ムルデカ広場)内(米国大使館の側)で「ドーン!」という爆発音があったそうです。
独立公園の周りには国家の中枢機関が集中していますが、公園の南東角の前に米国大使館がデーンと構えています。ちょうど大統領宮殿・外相官邸とモナスの塔を挟んだ真反対に位置し、 "主賓" の座を占めている感じです。その "最友好国の公館" に向けて、白昼堂々と攻撃が仕掛けられたわけで、事態は緊迫しました。
つい 2~3週間前、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故があり、その事態の深刻さが報道されている最中でした。
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塔で、首都警視庁の北方 約3マイルの所にある。塔を取り囲む広大な公園の
周りに、大統領宮殿や最高裁判所など、国家の中枢機関が集まっている。 .
独立記念公園は、機関銃を構えた大統領親衛隊が公園の入口を封鎖し、まるで戒厳令のような物々しさに。公園の周りは濃い緑の軍用車両がズラリと並び、装甲車・戦術車両も数台・・・・もちろん その中に、警察の灰色の車両も混じっていたことでしょう。
美しく手入れされた芝生の上、茂みの脇にベニヤ合板で作ったような灰色の箱が転がっていたそうです。約70cm四方で、25cmくらいの高さ。灰色は警察関係のシンボルカラーなので、一見 "警察の備品" に見えてしまいます。近づくと、直径7cmくらいの鉄管が2本、斜めに嵌め込まれているのが判り、火薬の臭いがプンプン・・・・。単純な構造ですが、米国大使館の庭に硬式テニスボールの筒のような「花火」(ただし 不発)が2本発見され、それが公園内から発射されたと推定されました。
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炸裂する迫撃弾であることが判明(何故か不発)
日航ホテルとカナダ大使館近くでも
独立記念公園の "爆発音" の約20分後、そこから約1マイル南にあるプレジデント日航ホテルと、さらに1マイル南のウィズマ・メトロポリタンの駐車場でも "爆発音" が響き渡ります。
前者は日本大使館の斜め前(「歓迎の塔」の横)で、8階 827号室の窓から日本大使館に向かって「花火」が発射されたのです。1本の「花火」は日本大使館の敷地内にある JICA事務所前に落下し、もう1本は翌日、大使館の裏手で発見されました。米国大使館で見つかった2本も含め、いずれも "不発" に終わったのは幸運でした。
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敷地内に日系大手企業がジャカルタ支店を置く「ウィズマ・ヌサンタラ」が
あり、1階が東京銀行で日本人には便利だった。 827号室は 中央部辺り。
他方、ウィズマ・メトロポリタンはカナダ大使館の真横にあり、その駐車場の自動車が数台燃え上がる騒ぎになりました。その中の1台はとくに損傷がひどく、後部座席が大破して、ガソリンを詰めていたと思われるタンクが数本あったと言われます。
ともかく、ほぼ同時刻に3か所で "爆発" があり、それぞれ米国、日本、カナダの大使館が狙われた可能性がある事件でした。
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(カナダ大使館の横)の火災現場
インドネシア政府は、治安不安の印象を避ける(観光客や海外からの投資が減ってしまうのを避けたい)ため、かなりの情報統制を行っています。しかし、これだけの大事件が噂にならないわけがありません。多くの憶測や様々な情報が飛び交いました。
また、日本人学校の事務室では、スクールバスの運行管理用の無線機を使って、軍・警察関係の無線交信を傍受する者もいました。学校は休み中なのですが、危機になると 学校を護るために頑張ってくれるのです。
しばらくすると、実行犯は事件の1週間前にプレジデント・ホテルにチェックインして「キクチ」と名乗ったことを、フロント係の女性が覚えていたこと(なんと犯人の旅券の誕生日が彼女と同じだったとのこと)、ウィズマ・メトロポリタンの駐車場で "爆発した車" は、レンタカーだった(レンタカー屋の社員は犯人と対面している)ことなどが、まことしやかに噂されるようになります。
そして、事件の2か月前に、プレジデント・ホテルの東方約1マイルにある ホテル・メンテンに、「キクチ」とそっくりの人間が宿泊していたとも・・・・ そこで「花火」や発射台を作っていたらしいというのです。
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中東の雰囲気を漂わせていた。噂では 連合赤軍の関係者も利用すると言われた。
地図上のオベリスク
5月末には、サッカーの世界盃メキシコ大会が開幕しました。アルゼンチンのマラドーナというスーパー・スターが、縦横無尽の大活躍・・・・「神の手シュート」が話題になっていきます。
その頃には、「キクチ」がプレジデント・ホテルにチェックインした際、フロント係は旅券の査証ページで入国日を確認しているのに、肝心の空港や港湾の入国管理記録には「入国カード」も「出国カード」もなく、どこから来て どこに行ったのかも不明、という話も聞こえてきます。
実に不気味な情報ばかりです。
「サッカーなのに 手で入れても得点になるのか?」と、私はサッカーへの興味が揺らいでいたある日、夢の中で アメリカのワシントン記念塔を見ます。「モナスの塔の先端は火炎だけど、他の国はピラミッドだよなぁ・・・・ 真横から見ると、足の生えた三角形のようだ・・・・」・・・・ その図がジャカルタの地図と次第に重なっていった瞬間、全身に電撃が走ったような気がして目が覚めました。
ジャカルタ市街地図を取り出して、米国大使館、日本大使館、カナダ大使館、そしてホテル・メンテンの位置に「〇」印をつけました。続いて、ブロックMの国家警察本部、チランダックの海兵隊駐屯地に「〇」印をつけると、日本大使館からカナダ大使館に引いた直線の延長線上に一列に並んだのです。
次に、ジャカルタ南東郊外のクラパドゥアにある機動捜査隊の駐屯地に「〇」印をつけ、ホテル・メンテンと直線で結ぶと、その線は、日本大使館と海兵隊駐屯地を結んだ直線と左右対称になりました。
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が収まり、あたかも オベリスクに刻み込まれた碑文のように散りばめられていた。
何だか途轍もない謀略地図が、目の前に現われた気がしました。"同一犯人の犯行" どころではない、少なくとも "巨大な犯罪組織" と考えざるを得ませんでした。いや、もしこれを、他の国やインドネシアの軍部・諜報機関が支援しているとしたら・・・・ 狙いは何なのでしょう? 真実は闇の中です。
私の脳裏には、ジャカルタ事件は「神の手シュート」の映像と共に刻まれています。
警察関係の用語について
インドネシア語の略語
ジャカルタ散策と裏の話
国境をまたぐ子どもたち