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インクルーシブ教育って結局可能なの?
最近、
就寝前に小説を読むのが
日課になりつつあります。
日常世界を忘れて、
別世界に没頭することを
10分、20分行って寝床につく。
これだけで、
ほどよい眠気で
気持ちよく眠れていますね!
共育LIBRARYへようこそおいでくださいました✨
教育、人間、人生など、様々な「知恵」や「情報」が詰まった図書館のような、皆さんがくつろぎ、人生の「気付き」を得たり、知的好奇心を満たしたりできる居場所を目指しています😌
どうぞ、ごゆるりとお過ごしください。
共育LIBRARYりょーやん、元教師です。
多様性を認める社会を。
そのような時代の流れと共に、
インクルーシブ教育というものが
話題としてあがるようになりました。
障害や国籍、性別、宗教などの
違いにかかわらず、
全ての子どもが互いに尊重し合い、
分け隔てなく学べる教育。
そう考えると、
ありとあらゆる多様性をもつ子どもが
同じ空間で
一緒に活動している姿が浮かんできます。
しかし、
全員が同じクラスの中にいるのならば、
特別支援学級というものも
いらないことになります。
インクルーシブ教育とは
何なのでしょうか。
そもそも、
日本においてインクルーシブ教育は
可能なのでしょうか。
今回はそのような視点をもって
記事にしていきます。
何か学びを提供できる記事になれば
幸いです。
インクルーシブ教育の実例を通して
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まず実際に、
インクルーシブ教育を実施している学校は
存在するようです。
以下の動画で紹介されている学校は、
50年以上にも渡ってインクルーシブ教育を
行ってきたそうです。
この学校で行われているのは、
完全に全ての授業や活動を
通常学級の子どもたちと一緒に行う
というインクルーシブ教育。
確かにこれこそが、
真の意味でのインクルーシブ教育なのかもしれません。
ただ、色々と
問題や疑問点が残ります。
例えば、
知的障害がある子どもが
同じ学習内容を進める場合はどうするのか。
知的障害の子に合わせた場合、
法律で定められている
学習指導要領の達成すべき水準を
他の子どもたちは達成できるのでしょうか。
上掲の動画では、
推測するに
常に1人に対して1人の特別支援を行える大人が
ついているように思えます。
ただ、
公立学校に在籍する特別支援学級担任は、
多くの場合2人程度です。
1~6年生に
それぞれ支援級在籍レベルの子どもがいた場合、
物理的に6学年に分散させると、
特別支援を行える大人の数が足りなくなります。
すなわち、
通常学級担任が1人で支援を行うことになる。
他の30人程度の子どもも含めて。
支援員というサポートもありますが、
「加配」という形で基準が決められており、
学校の人数の規模や、
支援を要する子どもの数によって
その数は上限します。
どれだけ多くの支援員が派遣されたとしても、
学校につき2人程度でしょう。
人手を増やすにしても、
現状でさえ特別支援学級担任は
明らかに数が足りずに、
特別支援に関する知識がない人が
担任を務めている学校もある状態。
教員の志望倍率が低下している現在、
特別支援のスキルをもった人材が
爆増するようなことは
おそらく見込めません。
そうなると、
通常学級で特別な配慮を受けられる程度は薄れ、
何のために特別支援学級というものが
存在しているのか分からなくなります。
もちろん、
全ての生活を一緒に過ごす
インクルーシブ教育のよい面はあります。
動画でもあった体育の授業などでは、
物理的に参加できないルールをどう工夫するかと
話し合う場面がありました。
こういったことを当たり前に考えるようになれば、
この子どもたちが大人になったときに、
ハンディキャップがある人に対し
偏見を抱くレベルは少なくなるでしょう。
ハンディキャップがあろうがなかろうが、
困っている人がいれば、
何の疑問もなく当たり前に助けることこそが
差別をなくす大きな一歩となる。
そういった意味で、
この実践している学校は素晴らしい。
ただ、
全ての学校に・・・となった場合は、
やはり大きな壁が存在していそうです。
現在の教育は既にインクルーシブ?
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先ほど紹介したのは、
全ての活動を障害があろうがなかろうが
一緒に行っていくインクルーシブ教育の例でした。
本来の意味では、
あれが理想形だと思います。
一方で、
観点を変えてみると、
インクルーシブ教育は
実は既に行われているという見方もあります。
全ての子どもが
平等に教育を受けられるように
「合理的配慮」を行うことも
インクルーシブ教育の1つです。
通常学級、
特別支援学級、
通級などの選択肢があることも
インクルーシブ教育の一環です。
また、
多くの場合、
特別支援学級に在籍している子どもは
「交流学級」のような形で
通常学級の授業に参加します。
あくまで、
参加できるレベルのものに限って、です。
給食を毎日のように一緒に食べます。
一部の授業は一緒に受けます。
校外学習も一緒に出掛けます。
班の活動も一緒に行うこともあります。
そのように見てみると、
ずっと前からインクルーシブ教育は
行われている部分があったと
捉えることもできる。
もちろん、
交流学級の場合は、
どうしても
「特別支援学級から来てくれるお客様」
的なポジションになってしまいがちで、
子どもたちも「配慮をしよう」とします。
ただ、
インクルーシブ教育は、
「障害」や「特別感」というものを
そもそも抱かずに、
自分も助けられているんだし、
助けるのも当たり前だよねという
「やってあげている感」をもたないものであるとも言える。
そういった意味では、
「本当のインクルーシブ教育」とは、
また違うのかもしれません。
また、
不登校の問題や、
多種多様に広がる教育のニーズに
教育界サイドが対応し切れていない部分があります。
そういった意味では、
まだまだインクルーシブ教育は
途上の最中であると言えるでしょう。
教員にも合理的配慮を
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子どもたちへの
合理的配慮の必要性を訴える時に
筆者がいつも思っていることがあります。
「先生たちへの合理的配慮はいらないのだろうか?」
と。
合理的配慮、
特別支援といったことが唱えられながら、
いまいち浸透し切っていかない要因の1つが
大人への合理的配慮が行きわたっていないからと
考える時があります。
子どもたちというものは、
大人たちの写し鏡です。
学年の先生たちの仲が良いと、
子どもたちも仲が良くなります。
職員室の中で多様性が認められていると
先生たちもクラスで子どもたちの多様性を
自然と認めることができます。
ある種、
出発点は大人の環境でもあるのです。
インクルーシブ教育について語られた書籍に、
「先生が逃げることができる環境」
を設計している学校もありました。
クラスにいることがしんどくなった時は、
教務主任とバトンタッチしたり、
休んだりしてよい、と。
「いつでも避難できる」という選択肢をもつことは
大きな安心感を先生の心の中に生むでしょう。
教員には、
教科指導が得意ではない人、
学級経営が得意ではない人、
学校運営の仕事が得意ではない人など
様々な人がいます。
「そんなの教員になる前にしっかり考えとけよ!」
という声もあるかもしれませんが、
実際に数年間働いてみないと
分からないこともあります。
そういった得意ではないところを
お互いに配慮し合ってカバーするためには、
どうしても、
学年、もしくは2学年に
プラス1人ぐらいの教員数がいるぐらいの
ゆとりが必要となります。
数の問題はなかなか解決の糸口は見えませんが、
教育界や福祉業界に勤め、
子どもたちの合理的配慮を考えている人たちが、
同僚の合理的配慮を考えていくことで初めて、
大人たちの世界、
社会全体が変わっていくのだと思います。
まとめ
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筆者はこれまで
数か所の職場を見てきましたが、
大体どの職場にも
配慮を要する職員は2~3割はいます。
人間関係や能力に問題を抱える人、
ハラスメントな発言をしてしまう人などは、
大抵の場合、
合理的配慮が必要な特性を抱えています。
そういった人たちが、
裏で陰口を叩かれている。
それも、日頃から、
「子どもたちに支援を!配慮を!」
と言っている大人たちが、
同僚に文句を言っていたりするのです。
そろそろ、
「子ども」「大人」という区分を外して
「人間全体」という視点で、
配慮が必要な人を判断していく必要があると感じています。
ただ、ハラスメントは、
傷つけられる相手がいる問題ですので、
その辺りの調整・バランスの判断が必要とされますね。
その意識が社会全体に浸透した時に、
真の意味でインクルーシブな社会が
成立するのかもしれません。
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