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福田翁随想録(25)

 長生きに値する生き方 

 慶応大学の名総長と謳われた高橋誠一郎先生はお話がとてもうまく、交詢社(福沢諭吉が提唱し、結成された日本初の実業家社交クラブ)恒例の昼食会での講話は、いつも盛況だった。淡々とした語りに場内は水を打ったような静けさとなり、時に笑いを誘われると弾けんばかりの賑わしさとなった。
 九十二歳になられた時、その矍鑠(かくしゃく)ぶりを讃えて「百歳までは大丈夫ですね」と申し上げたところ「それならあとわずか八年だけですか」と苦笑されたのを憶えている。そうはおっしゃっていたが、結局先生の天寿は九十七歳だった。
 先生の挙措動作はいかにも飄々としていたが、ご本人はそれを意識なさってはいなかっただろう。九十歳という大台に乗れば年下の者にはそのように映るものなのかもしれない。
 私自らが八十歳の大台にのってみると、七十歳では味わえなかった重みを覚える。なった者にしか分からない「時間」を刻んでいるという感覚を身体が教えてくれる。
 どうも時間というものは固定されたものではないように思えてきた。

 ラテン・アメリカなどでは、今もそうなのか確かめていないが、皆が昼休みを取るので商店街やレストランなどは店を閉め、町全体が静かになり人影も少なくなる。
 私が訪れた頃、スペインのフランコがこの昼休みを悪習として廃止しようとしたが成功しなかった。果たしてこの慣習は怠惰なのだろうか。私はむしろ素晴らしい生きる叡智なのではないのかとしみじみ考えさせられた。
 午後三時頃になると街は再び活況を呈する。この国の人たちは一日を二回に分けて暮らしている。ということは、われわれが五十年生きるとすれば、彼らは実に倍の百年生きているということにならないか。
 時間に支配され、こせこせ、イライラしながら東奔西走せざるをえない立場の人もおれば、陽が昇るとやおら野良に出て、日没とともに家に帰るという営みの人もいる。東北の郷里に戻ると「こんなのんびりした暮らし方もあるんだ」とほっとする自分がいる。 
 われわれからすると、まるで死に急ぐような生き方をしたと思える石川啄木にせよ、宮澤賢治にせよ、本人たちには時間に追われているような感覚や意識はなかったのじゃないだろうか。焦りの感覚もなかったと思う。二人とも憑かれたように書きまくった時期があるにはあったが、それはあくまでも内側からほとばしり出るものに身を任せたにすぎない。

 卒寿になってからも画境を堪能した中川一政画伯は、若き日からの友人だった佐伯祐三や岸田劉生の夭折を惜しんで「長生きしなくてはいい作品は残せない」と語っていたが、彼らが八十、九十まで描き続けて果たして晩年名作を残せたかどうか疑わしい。
 杖を持たなくては歩けない、他の人の介添えでやっと立っているというような啄木や賢治の老醜は拝めたものではない。それぞれ天与の持ち時間があったればこそあれだけの業績を残せたのだと思う。もちろん富岡鉄斎のように晩年になればなるほど冴えてくる特異なケースもないわけではないが。
 葛飾北斎は次のように書き残している。
「おのれ六歳より物のかたちを写す癖ありて、半百(五十歳)のころよりしばしば画図をあらわすといえども七十前に描くところは実に取るに足る物なし。七十三歳にしてやや禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。故に八十六歳にしてますます進み九十歳にしてなおその奥意を極め一百歳にしてまさに神妙ならんか。百有十歳にしては一点一格にして生けるが如くならん」
 これは天保五年(1834年)「冨嶽百景」に北斎自らが寄せた一文で、時に七十五歳であった。
 七十台になって物が描けるようになったからこそ、これから蘊奥(うんのう)に迫れるという希望が持てたのだろう。長生きするために養生するのではなく、長生きに値する充実した生き方をしたいという迫力を、この文章から感じとれる。
 当時は人生五十年で、長寿の人は少なく、周りは早々にご隠居さんになるというなか、葛飾北斎は桁外れていた。

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