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泡沫の夢
「いますぐに駆け出したい」
「えっ?」
「抑えきれない!」
「ど、どうしたの?」
「いま、すっごく膨れ上がってて……」
「………………」
「からだが、もう」
「………………」
「いまにも弾けそう」
「どういうこと?」
「アクティブな感情が」
「そうなんだ」
「とてもじっとしていられない」
「外出る?」
「出たい! 海が見たい」
女は入社式での創業者のスピーチを聞いていて、胸糞が悪くなり、吐き気すら覚えた。
商才に長けた経営者の下で働いていかなければ自分の生活が成り立たないということ、社会生活がスタートしないという現実に暗澹とした。
「自己を犠牲にして奉仕しなければならない、辞めるにやめられない……心からお悔やみ申し上げます」
そんな内なる声がした、人ごとのように。我慢して生きていかなければならない現実が見えた。陰鬱な日常がまざまざと思い描けた。経営者の言葉が詐欺師の言葉のように聴こえてきた。
「新入社員の皆さん! 皆さんとは家族です。喜びも哀しみも共にする家族です」
みんなはどんな顔をして聴いているんだろうと見回さないではいられなかった。鼓舞され、彼が求める人材に一日も早く順応し、会社と共に生きていこうと誓約しているのだろうか、と。
――よく内定が貰えたものだ。
「座右の銘は?」
「節度です」
「節度があるほうですか?」
「完全じゃないから、座右の銘にしているんです」
――なんの裏付けも実績もない生意気な言動をよくも寛大に、好意的に受け止めてくれたものだ。
「共に力を結集して頑張っていきましょう」
すべてがお終いのように思えた。真闇の底なし沼にひきずり込まれていくような気分だった。空恐ろしく、慄いているしかなかった。
――契約に縛られなければ人間は生きていくことが出来ない存在なのだろうか。何物にも縛られることなく自由奔放に生きていくというのは、夢物語なのだろうか。
「今日で辞めるの」
「会社?」
「………………」
「なんで?」
「いろいろあってね」
「急だな。そんなことになってるなんて全く気づかなかった」
「言わなくってごめんね」
「同期の連中、どんどん辞めてく……」
「………………」
突然言い渡された男の絶望感、喪失感は計りしれない。
――俺だけがこのままずっとここに居残り続けなければならないのか。
「立ち話じゃなんだから、ちょっと外出る?」
「ごめん。これから寄るとこあるから」
「そっか」
「こんど落ち着いたら連絡するね」
「ホント? してこないでしょ、そんなこと言って」
「………………」
「携帯、教えてくれる?」
「あなたの携帯貸して」
「うん」
「これが、私の……」
「了解」
「じゃあ」
「ちょと待って。間違ってるかもしんないから、念のため」
「ん? そんなわけないじゃん」
「間違いないみたいだね。それが俺の携帯番号。必ず電話して」
「わかった」
「必ずだからね」
「しつこい」
彼女が唯一無二のかけがえのない存在であることを改めて思い知らされた。
ビ―チに人の姿はなかった。曇天で海の色も砂浜も冴えない印象を抱かせる。女は波打ち際へと砂にサンダルを突きさすようにして真っすぐ進んでいく。男は遅れまいとその後につき従っている。
「波打ち際を」
「裸足で?」
「そう」
風はなく波も穏やかで、潮は音もなく曳いては寄せ、寄せては曳くを繰り返している。
「水しぶき上げながら?」
「うん、ありったけの力で」
「駆けたい?」
「ええ。駆け出したい!」
「駆けよう、水しぶき上げながら、全力で、一緒に手をつないで」
「えっ?」
興奮で火照った真顔がさっと男に向けられる。
「一緒に? 手をつないで?」
しばらく二人は立ち止まって見つめ合ったまま動かない。男は凍りついたような真っ白な顔をしている。
――俺は要らないということ?
男は真意を掴もうと真剣なまなざしを女に向けている。過去のやりとりがフラッシュバックする。
「それは……」
女は男の腕から逃れるように水平線際に浮かぶうね雲を見遣っている。
「それはちょっと……」
――またひとり置いてきぼりにされるのか?
男とは真逆の、生気に満ち溢れた神々しいまでの表情を輝かせている。
その時雲間から斜めに鋭い光が射し、海面を黄金色に染めた。荘厳さに放心したような女の眼に閃光が走った。