福田翁随想録(17)
禍福はあざなえる縄のごとし
世の中一寸先は分からないというのは、政界だけに限ったことではない。
ホームに電車が入るのを見て階段を駆け上がって飛び込んだところ、その電車が多数の死傷者を出す大脱線転覆事故を起こしてしまうということだってあり得ない話ではない。さらに駆け込んだ車輌が、被害が最も大きい先頭車輌だったとしたら、まるで死に急ぐ運命に自ら身を任せたとしか言いようがない。
私は狭心症と診断されてからは走らないことにしている。走らなくとも、三十五段もある駅の階段を登るのは楽なことではない。登っている途中で電車がホームに入ってきても無理をしない。乗り遅れてかえって良かったということもあるという思いがふとよぎって、急がない。
昭和四十一年二月、全日空の千歳発羽田行きのボーイング727型機が札幌からの多くの雪まつり見物客を乗せて羽田沖で墜落し、乗客乗員一三三名全員が亡くなった。
実はこの機に私の友人も乗るはずだった。
空港行きのバスがいよいよ出ようとする直前に呼び出しを受け、しぶしぶ降りなければならなくなった。やりかけていた映画のことで急を要しスタッフが慌ててバス会社に電話をしたとのことだった。
友人がこの全日空機で帰京することを私は事前に知っていた。まさかそんな大事故が起ころうとは夢にも思っていなかった。夜のテレビニュースで知った時の驚きは何年たっても忘れられない。続々と亡くなった搭乗者の名が発表されるなか、いつ彼の名前が出てくるかと気が気じゃなかった。
私は彼の死が信じられなくて一縷の望みを託して映画会社の支店に電話した。留守番の人だけで確実なことは掴めなかった。それでも彼が泊っていたホテルの電話番号を知ることができ、さっそく電話を掛けた。
「そういえばご本人様から再度の宿泊の問い合わせ電話がありました」
とのこと。何時だったかは憶えていないという。
そこで仕事柄考えた。
「電話があった時、テレビを観てませんでしたか?」
「そういわれればちょうどクイズ番組を観てました」
言われた番組名を全国テレビ番組対照表で確認してみると、まさに空港行きのバスが出発してからの視聴者参加番組であった。この対照表は放送会社だけに毎月配布される冊子で一般には手に入らない。私は彼がバスに乗っていなかったことを確信した。
すぐに死亡者名簿から彼の名を外すようキー局に連絡すると共に、彼の会社にも一報を入れた。
深夜になって彼が電話を寄こした。空港行きのバスを降りたその足で打ち合わせに向かい、その後は会議室に詰めていたので大騒ぎになっていることを全く知らなかった。
この友人の幸運話の裏には、真逆の不運なことがあっただろうことは容易に想像ができる。当日千歳空港カウンターはキャンセル待ちでごった返していたそうで、彼の予約席に他の誰かが坐っていたに違いない。おそらくご本人は死出(しで)の旅路とも思わないで、手に入れたチケットに嬉々として機上の人になっていたであろう。
幕末動乱時、福沢諭吉はいつも刺客に狙われていて脅かされていた(『福翁自伝』)。
開国文明論の福沢が攘夷論者に目の仇にされたのは当然で、四六時中命を狙われているのは「不愉快な、気味の悪い、恐ろしい」ことであると述懐している。
明治三年のこと、母親を引き取るため郷里中津に帰った時には、なんと従兄弟の増田宗太郎にまで命を狙われていた。
増田は水戸学に凝り固まっていて、後に西郷隆盛に心酔して西南戦争に加わり戦死するほどの一徹な武士だった。増田の殺害決行の夜たまたま福沢に来客があり、客人との酒を酌み交わしての談論風発が尽きない。増田は午前一時になっても客が帰りそうもないのでついに諦めて引き上げた。
福沢の酒好きは大変なもので、これで晩年命を落としたといってもいいが、この危難一件は酒に助けられた。
「禍福はあざなえる縄の如し」とはよく言ったものである。
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