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未完の佇まいに

 
 あの時、あの彫刻がミケランジェロのものだと知らなければ、そのまま通り過ぎてしまっていただろう。記憶にも残らなかったに違いない。ましてや動画撮影など思い立たなかっただろう。 
「死にゆく奴隷」
「抵抗する奴隷」
 この二体の彫刻像についての予備知識はまったくなかった。不自然に身体を捻じらせ、身悶えしている未完成彫刻――そのままの印象しかなかった。

「これって、ミケランジェロの彫刻なんだって」
「二つとも?」
「そう」
 たまたま隣に立った邦人カップルの会話が耳に入ってきた。その瞬間、不意打ちを食らったような驚きを覚えた。
「やりっぱなしって感じがしない?」
「だね。未完成だし」
 驚かされたのは、すぐそばで交わされた言葉が日本語だったからではない。
「なぜなんだろう」
「どうしてなんだろうね」
 女はスマホを、男の方はガイドブックを持っていた。
「ミケランジェロって、イタリアの人だよね。……なぜこれがルーブル美術館にあるんだろう」
 幼顔の女が訊いた。
「ガイドブックにはなにも書いてない」
 端正な顔立ちの男はページを捲りながら答えた。
「レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』は、フランス国王に招聘された時に自分で持ってきたからなんだけど……」
「確かにミケランジェロの方はフランスに住んでないもんね」
「当時のフランス国王が買い取ったとかなんかかな?」
「まさか。中途半端な、完成してないもん買う?」
「戦利品?」
「そんな闘いあったっけ?」
「だね」
 女はふふっと含み笑いをして腕を組んだ。
「それにしてもダ・ビンチはよく来たね、フランスに」
「イタリアでの仕事がなくなったからだったりして」
 意味ありげな笑みを男に向けた。
「まさか。巨匠のダ・ヴィンチだよ」
「だね。当時のフランス国王って誰だっけ?」
「んーとね、フランソワ一世」
 男はガイドブックを見ながら答えた。
「一五一六年にフランスに来て、その三年後に六十七歳で亡くなってる」
「晩年だったんだね」
「『モナ・リザ』観に行こうか。いまならまだ混み合ってないと思う」
「そうなの?」
「多分」
 傍らで会話を盗み聞きしている風の私を胡散臭げに一瞥すると、二人は手をつないで階段を駆け上がっていった。
 
        *

 サン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』像を前にした時の記憶が蘇ってきた。宙に浮くような感覚と感動はいまも薄れていない。
 ルーブル美術館での二体の「奴隷」像との出会いとは大違いだった。

 パリ市内観光の予定だったのを急遽変更してローマ行きの寝台列車に乗り込んでいた。思い立たせてくれたのが、ミケランジェロの『ピエタ』だった。
 西洋美術などとは縁遠い暮らしをしていた私が、ほぼ結びつきようのないルネサンスの巨匠・ミケランジェロと出会ってしまったのだ。
 全くの偶然だった。パリのセーヌ川沿いの露店古書店で目にした一冊の美術書――それがミケランジェロの作品集だった。
 早春の朝のすっとする空気を味わいながら川沿いを歩いていて、たまたま一軒の趣ある露店古書店を見つけた。冷やかしで立ち寄った私の目が、平置きされた大判の美術書に釘づけになった。ややうつむいた乳白色の女性の顔がクローズアップされたカバーがかかっていた。
 今なら迷うことなく確信を持って明言できる。私のなかの燻るように眠っていた魂の渇望としかいいようのないものに火が点けられた瞬間だった。
 手に取って表紙を開くと、巻頭の見開きにも同じ彫刻の全体像が載っていた。イタリア語で書かれた解説は読めなかったが、写真からだけでもその傑出した巧みさ、精巧さは伝わってきた。表情からだけでなく彫像全体から内面性、精神性がにじみ出ていた。人間に対する深い洞察、認識が感じられ、鳥肌が立った。半裸の亡き骸を膝の上に抱く若き女性の表情に見惚れ、宙に浮くような感覚を覚えた。実物が見てみたいと思った。  
 ホテルに戻ってからもその女性の顔がたびたび浮かんできて、そのたびに購入してきた作品集を開いて見惚れた。現実とかけ離れた手の届かない世界のもののように思えてならなかった。
 ミケランジェロ・ディ・ロドヴィコ・ブオナロティ・シモーニ (一四七五~一五六四) 。イタリアのルネサンス芸術の最盛期に活躍した、レオナルド・ダ・ヴィンチと並び称された天才芸術家。
『ピエタ』像は彼が二十四歳の時に完成させた大理石彫刻。「ピエタ」とは、イタリア語で、意味は「嘆き、哀れみ、慈悲」。十字架から降ろされたイエスの亡き骸を抱く聖母マリアの嘆きというキリスト教美術の主題のひとつ。ミケランジェロは生涯にわたり同じ主題に四度挑戦し、唯一完成させたのがサン・ピエトロの『ピエタ』。……
 ネット検索すればするほど半端ではない量の情報が溢れ出してきた。どれもおざなりにできない情報ばかりで、そのすべてを即インプットしたいと急く気持ちが度重なるミスタッチを生んだ。
 一七三六年に正気を失った男がピエタ像の左手の指四本を折るという事件が起こった。さらに一九七二年五月には精神疾患のある地質学者が、「俺がイエス・キリストだ」と叫びながら鉄槌で鼻や腕などを叩き壊したという。
 実物を見たいという思いを募らせた。バチカン市国の名は聞いたことがあったが、その国のことはもちろん、どこにあるのかさえ知らなかった。検索して初めてイタリアのローマに存在する、世界で最も小さな独立国だということがわかった。
 パソコン画面から陽が射し込むフランス窓の方へ顔を向け、しばらく険しい表情を浮かべていた。翌日はパリの地下墓地・カタコンブをはじめ観光客があまり行かない場所を見て回る予定だったのだ。
 持ってきたガイドブックにイタリアの記述はなかった。旅行計画にローマは入っていなかった。パリからローマへはどういう経路を経てたどり着けるのか、ヨーロッパの地図とトーマス・クックのコンチネンタル時刻表で調べた。ローマへ行くには数本の国際列車があった。一番簡単で便利な列車はローマ直通の国際寝台特急・パラティーノ号だった。
 リオン駅十八時四十七分発。まだ間に合うと分かると、すぐに荷物をまとめ始めた。宿を出てその足でマルセイユ、スイス、イタリア方面へ行く列車の発着駅であるリオン駅へ徒歩で向かった。発車時刻まで時間があったのでパン屋でバケットを一本買い、セーヌ川の川べりでパンを齧りながら行きかう船やボートを眺めて時間をつぶした。
 リオン駅には改札口に当たるものはなく、プラットホームが横一列に並んでいた。すでに列車は停まっていて、昇降口の案内掲示で列車名と行き先を確認して乗り込んだ。定刻にパラティーノ号はアナウンスもなくホームを滑り始めた。ディジョン、シャンベリー、国境駅モダーンを経てイタリアに入り、トリノ、ジェノバ、ピサといった半島の西海岸沿いの都市を南下し、ローマのテルミニ駅には翌朝やや遅れて到着した。
 幸運にもカフェテリアで対訳付き観光パンフレットを手に入れることができ、それに従ってバチカン市国行きのバスに乗りサン・ピエトロ大聖堂にたどり着いた。
 大聖堂に入りやや右手に進んでいったところに目指す彫像があった。防弾ガラスに遮られて間近には寄れなかったが真正面に立ち、感覚を研ぎ澄ませた。五百年前にミケランジェロが彫り上げた『ピエタ』像をいま自分の眼で見ているという事実を確かめていた。仮想ではなく現実なのだといくども自分に言い聞かせなくてはならなかった。
「聖母マリアの処女性、不滅性、年をとらない」というミケランジェロ独自の解釈のもと、膝に抱かれたイエスよりも聖母マリアの方が若く彫りあげられているという。また彼が六歳のときに亡くした母親を思い描き、投影したものだという説もある。
 宗教的なことはわからない。わからなくとも『ピエタ』の秀逸さは感じとれた。実物は写真を超える魅力をたたえていた。恋慕に近い感情を抱き、胸を締めつけられる感覚を覚えた。もっと近くに寄ってわが腕で抱きしめたい、ひとつになりたいという激情がこみ上げてきたが、私はただただその場に立ち尽くしていることしかできなかった。 

 ミケランジェロが彫り上げた聖母マリアの表情は、人間の嘆きや哀しみや憂いなどの一切の感情域を超越している。人間存在を遥かに超えている。なにもかもが天空にすーっと吸い上げられていくような、宇宙の大いなるものに包み込まれていくような、そんな感覚と安息がもたらされる。 
 自分は彫刻家でもなければ、鑑定家でもない。アートについてはズブの素人だ。なんの知識も見識も、素養もない。だからといって自分の受けたもの、感じたものを眠らせてはいけない。ないがしろにしていいはずがない。
 感性、感覚は人によって異なるものだ。すべてが同じなら機械となんら変わらない。異なるが故の個性なのだ。個性に目を向けるということは常識や既成の価値観とは一線を引くということだ。価値基準は自分にあり、価値のあるなしは自分が決めるものなのだ。
『ピエタ』によって、ミケランジェロによって、私のなかのアートに対する認識が大きく変った。芸術の可能性、偉業というものを知らしめられた。唯一無二の美というものの底知れなさを感得させてくれた。 

         *

「あのミケランジェロが……」
 私の意識は齟齬をきたし、がんじがらめになった。
「これがあのミケランジェロの手による彫刻なのか?」
 なぜ「奴隷」を主題としたのか? なにを表現しようとしたのか? なぜ荒削りの未完成のままなのか? ……
 私は二体の未完成彫刻像の前から動けなくなった。
 いくら眺めていても疑問が解決するはずがなかった。私は混乱したまま茫然としていた。
 ふと動画撮影を思い立った。
「記憶だけでは留めきれない。帰国してからもじっくり見たい」
 私は迷わずスマホを取り出し、二体の奴隷像を至近距離から撮影し始めた。

「抵抗する奴隷」――
 左肩甲骨、背中部分が分厚く、不自然な肉のつき方をしている。左横から見ると別な人間の背中部分を背負っているように見える。顔には右こめかみから斜めにヒビが入り、左肩の上まで達している。右足は軽く曲げられ、石のステップを踏みつけている。
 なにかから逃れるかのように身を捻じり、身悶えしているかのように上半身を突き出している。顔は左斜め上に向けられ、表情は無防備で、弱々しい。
 背後に回ると、未完成感が強い。荒々しい鑿の痕がついた大理石が腰の辺りまでへばりついている。
「死にゆく奴隷」――
 右やや斜め後方に傾げた頭が左腕で支えられいる。その指先が漉くように頭髪に埋まっている。服を脱ごうとするかのように右手は胸に軽くあてがわれ、目は閉ざされ、表情は安らかでうっとりしている。
 背後に回ると、同様で、鑿の削り痕がついた大理石が太腿の辺りまで纏わりついている。

 なぜミケランジェロの彫刻がフランスにあるのか? どういう経緯でルーブル美術館に展示されることになったのか? 
 その疑問はその場でググってみて、解決することができた。

 奴隷彫刻像は当時のパトロンだったローマ教皇・ユリウス二世の霊廟に飾られるはずだったが、教皇が亡くなり予算が削られ、計画が見直されたためにすべて未完成のまま余ってしまった。「死にゆく奴隷」と「抵抗する奴隷」の二体は、ミケランジェロが病の時に世話になった友人の銀行家・ロベルト・ストロッツィに贈られ、彼が亡命する時にフランスへ持ち出された。そしてフランス国王・フランソワ一世に献上され、王はこれをモンランシーの司令官に与え、その後一六三二年にリシュリュー枢機卿の所有となり、一七九二年にパリ国立美術館に収められた後、一七九四年にルーブル美術館所蔵となった。   
 同時期に着手された「アトランタの奴隷」「目覚める奴隷」「若い奴隷」「鬚の奴隷」の四体は、弟子の作とする見立てもあってかフィレンツェのボーボリ庭園のブオンタレンティ洞窟に長く放置されていた。一九〇九年にアカデミア美術館に収蔵されている。
 
 その場で調べることには限りがあった。到底旅先ですべての疑問を解決し尽くすことなどできるはずがなかった。謎は謎のまま、疑問は疑問のまま日本に持ち帰るしかなかった。

        *

 ランチをとるために美術館を出た。予約していたカジュアルレストランには難なく辿りつけた。
 地元でも人気のあるレストランだけに大変な混みようだった。しばらく待たされた後、鬚を蓄えたホール担当に案内されて奥の窓側テーブルに腰を下ろした。
 奇遇にも隣テーブルにルーブルで出会ったカップルが坐っていた。彼らを見た瞬間、私はすぐに気がついた。
 男と目が合ったので私から声を掛けた。
「さきほどもお会いしましたね」
 男は突然声を掛けられ、「えっ?」という驚いた顔をしていた。
「ルーブルで、ミケランジェロの奴隷像の前で」
「ああ、あの時の」
 女性の方が思い出してくれた。
「日本人の方だったんですね。中国か韓国の方とばかり」
 どうして彼女がそう思ったのか訊きたかったが口にはしなかった。
「お礼を言わなければなりません」
 二人してまた怪訝な表情を浮かべた。
「あの時ミケランジェロのものだと教えていただきました」
「ああ、あの彫刻のことですか?」
「ええ。知りませんでした。なんの予備知識もなく美術館巡りなどしている方がどうかしてるんでしょうが」
「そんなことないですよ。私たちなんか、いつもスマホとこのガイドブックだけで観光しまくってます」
「どこもかしこも行き当たりばったりでね」
「そう。でも、なんとかなるもんで」
 日本から遠く離れた旅先ということもあって、遠慮も緊張もなく談笑できた。
「なぜ新婚旅行先をヨーロッパに?」
「彼女の希望だったんです」
「どこもかしこも何世紀前とほぼ同じじゃないですか。建物も佇まいも。まるで夢の世界にタイムスリップしたみたいで」
「憧れだったんだよね」
 私の旅行目的も訊かれたが、軽く嘘を吐いた。吐かざるを得なかった。ひと言で伝えられるような簡単な話ではないし、また的確に話せるほど掴めてもいなかった。幸せそうな二人の前で話すような愉快な内容じゃないことだけは確かだった。
 その後も楽しい会話が続いた。風貌からは期待できないホール担当の行き届いたサービスも気分を良くしてくれていた。
 私は心やすくなって、『ピエタ』見たさに、ただそれだけのために予定を変更してバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂へ行った経緯や『ピエタ』の実物を前にした時の驚きと感動について話した。
 またルーブルの奴隷像がミケランジェロの手によるものと知って整理がつかなくなり、いま混乱していること、その謎解きに憑りつかれてしまっていることを吐露した。
「ミケランジェロがお好きなんですね」
「好き?」
 私のなかでなにか違和感を感じて口ごもった。
「疑問が持てるというのも、才能ですよね。疑問を抱かざる者に進歩も成長もない。とことん疑え。これ、曾祖父の本の受け売りなんですけど」
「えっ? もしかして『天道を生きる』ですか?」
「そうです。読まれたことありますか?」
「ええ、修行時代に」
 二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「こんなところで間宮宗太郎のご子孫にお会いするとは思ってもみなかった」
「なにかの巡り合わせ?」
「ひいお爺ちゃんの?」
「ミケランジェロのお陰ですかね」
 三人して声を合わせて笑った。

 間宮宗太郎は、宗教哲学思想家、美術評論家であり、民藝運動の父・柳宗悦とも親交があった。著書も多く、特に『天道を生きる』は名著の誉れ高く、今も多くの人に読み継がれている。
 私の書棚にも並んでいた。師匠からもらったものだ。書棚から引き抜いてきて探し始めた。目次に「〈疑〉を発する」という項目があり、該当箇所はすぐに見つかった。
「疑問を持てること、それは大いなる才能のひとつである。疑問は入り口であり始まりである。〈疑〉を発し、その答えを追求し続けることは、己れの進むべき生き筋を切り拓くことに通じる。
 錐で穴を穿つが如く疑え、とことん疑え。
〈疑〉なくして進歩も成長も、そして独創もない。天が己れを導いている証と自覚し、逆らわず、抗わず、励み、異才たれ。……」
 
「これからの計画は?」
「スペイン、ポルトガル、できればアフリカ大陸に渡ってモロッコへも行きたいと思っています」
「どうされるんですか?」
「私ですか? ルーブル三昧かな、また」
「ミケランジェロが本当にお好きなんですね」
 彼女は目をキラキラ輝かせてまた同じ言葉を口にした。
 コメディ・フランセーズへ観劇に行くという二人とは、そこで別れた。
 
        *
 
 帰国したものの、なんの計画も予定もなかった。実家に身を寄せていた。
 かつて働いていた北陸の有名な漆工芸作家の工房も今はなくなってしまっている。能登半島を襲った地震のせいで建物も作業場も甚大な被害に遭い、再開の目途が立たず解散となり、職人たちは散り散りに北陸の地を離れていった。   
 なにか始めなければならないのは分かっていたが、なんのあてもなかった。他の世界のことはなにも知らなかった。
 日々漫然と、ミケランジェロの作品集やら撮影してきた動画などを眺め暮らしていた。父親は咎めも小言も言わない。自分で自分のいま置かれている状況を把握出来ていて、このままではいけないという前向きの気持ちでいるはずだと信じてくれているように思う。
 漆工芸の世界に入ったのは自分の意志ではなく、師匠と父親とがたまたま知り合いで、親の勧めでお世話になることになった。興味もあこがれもなく入った世界での日々は戸惑いと後悔の連続だった。
「頑張っておればなんとかなる。ひとかどの工芸職人になれる。志を持って打ち込め」
 と、実家に帰れば弱音が吐けるような隙も与えられず、父親に発破をかけられた。
「筋はいい、育てがいがある」
 師匠に言われたことをそのまま受け止めて、目を輝かせていた。そんな甘い世界じゃないことくらい充分分かっていた。 
 身の入らぬ漆塗りの職人仕事に倦んでいた。静謐な閉め切った小部屋で埃ひとつ立てないような所作で、一本の野花を挿した一輪挿しを前に修行僧のように息を殺し、一途にひたすら均一に、滑らかに漆を塗り重ね、研ぎ出し、仕上げていく根を詰める作業。
 師匠の後ろ姿を見てなんど悍ましく、そら恐ろしく感じたか知れない。自分が目指しているのはそんな姿なのか、到達したいと願っているのはそこなのか、と逡巡してばかりだった。志すべきものの核心を掴みかねていた。定めかねていた。燃え盛り、いきりたつ方向性を欠いた内なる情熱を抑え込み、閉じ込めておくことはそう簡単なことではない。突然立ち上がって叫びだしたくなる瞬間が幾度もあった。
 師匠はそんな心定まらぬ、集中力を欠いた未熟な弟子の心を見透かしているような慧眼で見ているだけで、なにも言葉を掛けてくれないし、小言すら言わない。ただ自分の背中を見て学べ、励めとでも言わんばかりに、決まった時間に起き、決まったような流れで作業場に顔を出し、終日塗り仕上げ部屋に籠って、黙々と孤独な作業と格闘していた。
 
 ミケランジェロの『ピエタ』像を前にして受けた震えるような感動が蘇り、いつしか私をなにかに駆り立たせようとする力を感じるようになってきた。
 なぜ惹かれるのか、なぜ魅了されるのか。心惹かれ、魅了されるものの核心に迫りたい、触れたいと思った。
 私は調べることに注力し始めた。技量に限界はあったが、時間はたっぷりあった。自分なりに当たれる資料に当たり、インターネットも駆使して学んでいった。
 
「死にゆく奴隷」
「抵抗する奴隷」
 いずれのタイトルもミケランジェロ自身がつけたものではない。後の人の印象でそう呼ばれているだけで、決定的なものではない。見る人に「抵抗する」「死にゆく」ように感じられたからだ。「瀕死の」「まどろむ」などいろんな呼び名が存在する所以だ。
 当初の霊廟構想のもとに着手された「若い」奴隷、「鬚の」奴隷、「アトラスの」奴隷、「目覚めの」奴隷の四体もしかりで、確かなのは「奴隷」という主題だけだ。
 ミケランジェロの奴隷像について様々な言説がある。
 拘束され拷問を受けての苦悶、苦悩。
 救いを求める魂の肉体からの解放。
 地上と神との間の闘争。
 ホモエロティクな感情の象徴……。 

 いままた無限リピート地獄に墜ちたかのように動画の再生ボタンをクリックしていた。
 確かに「抵抗する奴隷」は後ろ手に縛られ、それから必死に逃れようとしているように見える。「死にゆく奴隷」の表情はなにもかも投げ出し陶酔、恍惚としているように見える。
「死にゆく奴隷」の男の胸の上に帯のような布が巻かれている。「フィレンツェのピエタ」「パレストリーナのピエタ」のキリスト像にも巻かれていた。死装束のような死者に巻かれるものなのか。
 さらに目を引くのは、後ろから両脚に取り縋るような恰好をしている「モノ」だ。サルと見立てている人が圧倒的に多い。確かに、左側からズームした映像を見ると鼻が突き出ていて動物の、まさに「サル」の顔に見える。 
 ルーブル美術館の公式説明でもサルとされている。なぜサルなのかについては謎である、とも。
 ミケランジェロには『キリストの埋葬』という未完成の板絵 (ロンドンのナショナル・ギャラリ―所蔵) があり、描かれているキリストの姿、格好が「死にゆく奴隷」と酷似しているところからこの奴隷像の男はイエス・キリストであるとする研究者がいる。
 この板絵の写真を見た時、閃めくものがあった。足に縋りついているのはサルではなく人間であり、それも女性なのではないか、背中の髪のように見えるのはイスラム教の女性が纏うスカーフのような被りものなのじゃないか、と。
 しかし、さすがに縋りつくものを聖母マリアに、奴隷をイエス・キリストとだぶらせるような想像はできなかった。

 ミケランジェロは「人間は理性(精神)が欲望(肉体)の奴隷になっている存在だ」と考えていたという。奴隷像によって人間の「精神」(理性)と「肉体」(欲望)の葛藤を赤裸々に表現したものだとする解釈がなされる大きな根拠となっている。そこに疑問を抱く余地がない。頷ける。
 だからなのか――私のなかの歯車がカチッと嚙み合った。だからミケランジェロは霊廟の下層に「奴隷」を主題とする複数の彫像を配置しようと構想したのだ。人間の真の姿を現出させたかったのだ。
 その当初の構想は果たせず、スケールの小さい、計画とはほど遠い壁面墓として完成する。紆余曲折があって進まず、着工から四十年もかかっている。もちろんその間にシスティー礼拝堂の天井画、メデイチ家礼拝堂、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」などの偉業を成し遂げている。
 それにしても三十歳から七十歳までというのは気が遠くなる話だ。その完成した墓廟に奴隷像は一体もない。
 墓廟はいまローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会内にある。下層にユダヤの民を神との約束の地へ導かんとする「モーゼ」像がヤコブの妻たち「ラケル」と「リア」を両脇にして置かれている。その上の層には、巫女と預言者、その間で横になるユリウス二世が、そしてその背後に聖母子像が配置されている。
 人間の欲望は果てることはない。押し寄せてくるあらゆるものにのみ込まれ揉みくちゃにされ、揉みくちゃにされることから生まれるエクスタシー。欲望は拡大、膨張し続ける。
「精神」とは、理性、意識、意志などの心の動きの元となるもの。「意思」は、なにかを成そうとする時の元となる心持ち。「意志」は、成し遂げようとする積極的な意欲。自覚、無自覚から生まれる意思が意志をもって事が成し遂げられる。
「肉体」はどこまでも「生」に執着する。絶対的に「生」が優先され、「死」は拒絶される。その「肉体」の「生」の桎梏から逃れ得るとしたら、それは「精神」によってなのだ。
 理性、意識、意思、意志によって「生」と「死」の有り様は変わる。理性、意識、意思、意志により「肉体」の「生」への執着を抑制、制御し得ることができる……。

 さまざまな姿態の人間の素の姿――未完成ながらもいずれの奴隷像の姿態からも諦め、絶望の呻き声が、苦渋、苦悶する唸り声が、抗い、格闘する叫び声が聴こえてくるようだ。 
 
         *
 
 ミケランジェロにはなぜこうも未完成の作品が多いのか。
 心残りや未練はなかったのだろうか。自分のなかでどう処理されていたのか。 
 未完成続きでは達成感もやりがいも感じられなかったのではないか。不完全燃焼の積み重ねで病んでしまうようなことはなかったのだろうか。
 構想に、彫工の仕上がりに迷いが生じ、彫る手が止まってしまったのだろうか。納得がいかなかったが故に中断され、未完成のまま放置されたのか。
「ピエタ」制作には四度挑み、完成したのはサン・ピエトロ大聖堂のものだけで、他はすべて未完成のままだ。ミケランジェロは「ピエタ」の主題に八十八歳で死去する直前まで挑み続けた。視力、体力が衰えてもなお彫工の情熱を持続させていたという。
 作品の仕上がりには厳しく、気に入らなければ破壊も厭わなかったとも伝えられている。破壊されなかったのは未完の形態に完成美とは異なる美を見出していたからだろうか。
 確かに未完の作品にはそう思わせる趣きのものがある。肉体と大理石の塊が合体し、より深い内面性を表現しているように見えてこなくもない。
 私のミケランジェロの奴隷像を見る眼が変わってきているように思う。
 未完成のなかに「美」を見出していたのではないか。未完成であっても彫り出されてきたものに審美眼が働いたのではないか。価値があるという自己評価がなされたのではないか。でなければ未完成品を世話になった人に贈ったりできなかったはずだ。 
 この奴隷像制作のあたりから、自らが目指す彫刻は必ずしも彫り終え、完成されたものでなければならないとは考えなくなっていたのではないか。
 未完成の彫像を見つめ続けていると、籠められた情熱、祈り、願い、志が滲みだしているように思える。魂の叫びのような、求道の声が聴こえてくるようにも感じられる。未完成の佇まいに己れの完成を一途に追い求め続ける執念と覚悟が見えてくるようだ。
 
 ミケランジェロは、十三歳の時にドメニコ・ギルランダイオの工房の徒弟となる。しかし、絵画ばかりの仕事に飽き足らず、工房を出ることを決意し、彫刻家・ベルトルド・ディ・ジョバンニの指導を受ける。その後、メディチ家のロレンツォ・ド・メディチの庇護を受けながら大理石彫刻家としての異才を放ち始める。
 工房の徒弟となる――そこは奇しくも自分と重なる。しかし、工房を離れる理由がまるで違う。彼には自分のやるべきこと、やりたいビジョンがしっかり描けている。絵画ではなく、迷わず彫刻の道へと突き進んでいった。
 片や自分はと言えば、漆工芸を離れたのは、離れざるをえなくなったのは震災被害によってであり、なんの目的も目標もなく、なにがやりたいのか、したいのか、進みたい道、進むべき道はまったく見えていない。…… 

 そんな折、師匠から「新たに工房を立ち上げた。手伝ってくれまいか」という手紙を戴いた。僥倖だった。
 未熟、未完成なればこそ、学び、励み、習得しなければならないことは明確に見える。かつてのようなざわつきはない。心は安らいでいる。いま再び私のなかに師匠の元で漆工芸作家の道を真剣に、本腰を入れて歩み始めてみようかという意欲が戻りつつある。
 遠きイタリア、フランスの地でルネサンス(再生)の巨匠の作品と出会えたおかげかもしれない。
 どこまで精進できるか、どの域まで到達できるか、焦らず、倦まず、弛まず、ひとつ事を大切に積み上げていこうという心境に至りつつある。
「〈疑〉を発し、その答えを追求し続けることは、己れの進むべき生き筋を切り拓くことに通じる。錐で穴を穿つが如く疑え、とことん疑え。
〈疑〉なくして進歩も成長も、そして独創もない。天が己れを導いている証と自覚し、逆らわず、抗わず、励み、異才たれ」
 間宮宗太郎の文言がいままさに読経のように、重々しく、導くかのように響いている。

 



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