![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/111555572/rectangle_large_type_2_bb54515608b2cd7ffb82140cf134324e.png?width=1200)
福田翁随想録(2)
死は恐ろしいから論じたくなる
六百里(2400キロ)、百五十日の「おくのほそ道」の旅を終えた松尾芭蕉(1644~1694)に待っていたのは、不帰の旅への新しい出立であった。
時に五十一歳。みちのくの旅も漂泊の俳人には苦しくもまた詩境を満足させる楽しみもあったろうが、西方浄土への旅に向かう心境はどうだったろうか。
有名なこの句の境地をうかがい知ることはできない。
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
しかし「おくのほそ道」に旅立つに当たって、「古人も多く旅に死せるあり。予も、いずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず」と書いているところから察すると、芭蕉にとって旅とは西行や能因と同じような物見遊山ではなかった。
病の篤い枕頭にあって、芭蕉に去来する夢とはどんなものだったろうか。
ここで私は、バンクーバーでひとり暮らしをしていた時に肺炎に罹って臥せていた日のこととダブらせて思わざるを得ない。
高齢者にとって肺炎は命にかかわるといわれるが、異境にあって誰に介護されるわけでなく苦しむという寂寥には耐え難いものがあった。
私にもまたいろいろな「夢」が駆け巡ったことはいうまでもない。
バンクーバーの冬期は、太平洋岸に黒潮の日本海流が押し寄せ、北極からの寒風とぶつかって濃い霧に包まれる。港に出入りする船からの霧笛がひびき、毎日憂鬱な日が続く。健常な人でも滅入ってしまう悪天候である。
石川啄木のこんな短歌を思い出したものである。
呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩より寂しきその音!
息を吸うたびに肺臓にひびいて深く吸えずに寝つかれなかった。明日には楽になるだろうという願いもむなしく、一ヵ月経っても快方に向かわないので思い定めて医者に診てもらった。
三時間ごとに飲んだ抗生物質が思ってもいない劇的な効果をもたらし、完治させることができて有り難かった。
ひとり痛みに耐えながら思っていたのは、永遠、無限、空といった観念をどうしてこの有限な五尺の身体で考えることができるのだろうという不思議であった。
有限の間尺(ましゃく)にしてもこれを二分する作業はどこまでも続けることができるから有限即無限ということになる。
このような思考はなにも私だけの発見でもなければ独創でもないだろう。
また芭蕉に戻りたい。
荒海や 佐渡に横たふ 天の川
酒田から敦賀までの旅は、日本海を右手に見ながらのコースである。
足元に潮騒の怒涛が、頭(こうべ)をあげれば中天に銀河の帯がかかっている。それが暗く浮かぶ佐渡島に届いている。
芭蕉にしても有限と無限の関係を知らなかったはずはない。だとすればわれわれは芭蕉だけに限らず、将来にわたって無数の人たちと精神の同じ場を持ち得るということではないだろうか。
時間にこだわらない先の先の将来にこうやって蘇生することになるかもしれないと思った。そう考えてわが生命の永遠性を自分なりに納得させることにした。
今日私を含め現にこうした死生観や生命論がマスコミで取り上げられているが、裏を返せば、不可知でわからないから騒いでいるだけなのではないだろうか。
皮肉っていうならば、私にしろ八十歳越しても死は恐ろしいから弁じているともいえる。結局観念の遊戯といえばいえる。
私が北緯四十九度の異国の病床で思い巡らした心の遍歴はそれなりに貴重な体験だった、と懐かしく思い出すのである。
あの病んでいる時、暖かい紅茶を飲ましてくれた篤信のグラハム夫人、心配してアスピリン錠をわけてくれたカコ婦人はその後どうなさっているだろうか。