福田翁随想録(26)
発想を変え、心を切り替える
信長、秀吉、家康、この三人の気質を時鳥(ほととぎす)の歌に詠んだのは誰なのか不明だが、言い得ていて妙である。
周知であるが、改めて掲げる。
鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 信長
鳴かぬなら鳴かせてみよう時鳥 秀吉
鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥 家康
美声を発してくれない時鳥はただの鳥にすぎないから飼っておくこともない。信長にとって「役に立たないもの」は容赦なく切り捨てられる。
日本経済を急成長させたのは終身雇用だ、年功序列だ、企業内組合だとして諸外国に羨望と脅威を与えていたのが、今日では、不況はこの三つが裏目に出たツケだと指摘される変わりようである。
企業体に吹きまくるリストラの風に労働界の不安は深刻だ。今まで一流気どりで、政治は三流と見下していた経済界のお偉方がスキャンダルで頭を下げている図を見ることも珍しくなくなった。
そこで今更のように経営体の改善には信長以上の厳しい対応が求められるようになった。信長はそれなりに時代を切り拓く先鞭をつけたが、今の経営者の質では、それはあまり期待できない。
秀吉のように絶大な権力を発動して、時代を転換させてくれる指導者を今の日本に見ることができるだろうか。
我が国は独裁国家ではないのだから国民から遊離した剛腕指導者が出てくるはずはないが、議会制民主主義を信奉する野党第一党ならば、政権に就けるだけの実力をつけるのに日夜研鑽してくれていなければならないはずである。
国民の多くがそれを期待しているのに、閉塞した時代を打開して見せようとする気概が感じられない。誰が見ても不適切と思われる私生活を暴かれるようなことが報じられたりすると民意結集のエネルギーが削がれてしまう。
それならば家康のように、国民が粘液質になってこの不景気風に耐え抜けば、一陽来復が望まれるのだろうか。待ち堪えることによってエネルギーを蓄えた徳川のような長期安定が実現するのだろうか。はなはだ心もとない。
ところで、鳴かない時鳥に対する対応の仕方は三つしかないのだろうか。
まだあるではないか。以下は私見である。
鳴かぬなら放してしまえ時鳥
いつまでも時鳥にこだわらない。飼っているうちにいずれ鳴くかもしれないとずるずる荏苒(じんぜん)歳月を送るような愚はしない。
なぜ鳴かなくなったのかその理由を探ってみる。そして叶わぬのならば、これを機に発想を転換して飼うことをやめてしまう。
いつまでも過ぎ去ったことにクヨクヨする人がいる。バブル経済は消えてしまったのである。それをいつまでもあの頃のような華やかさを念願するというのは大間違いである。きっぱりとそんな夢は捨てなくてはならない。
発想を変え、心を切り替えると、別天地が拓けることもある。
また、これなどはどうだろうか。
鳴かぬなら忘れてしまえ時鳥
鳴かなくなっても美声を発してくれていた愛鳥に「今までよく楽しませてくれたね。どうもご苦労さん」と労りの心をもって、今までと同じように愛情を持って世話をし、飼い続ける。この対応はなかなかできるものではないが。
私にも溌溂たる青春時代があった。またそれなりに戦後の再興に微力を尽くしてきたつもりである。おそらく私くらいの年配の方は誰もが口に出さずともそう腹の中で思っているはずである。
それだけに今日の年金生活に響く低金利や医療費の高騰に心を痛め、腕組みして首を傾げざるを得ない。
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