人生を設計するということ
「悔しいよね」
ちらっと悲しそうな表情を浮かべて、そのタレントは呟くように漏らした。
――心からそう思って言ってるんだろうか。演技じゃないんだろうか。
それを観ていた私は、一瞬疑った。あからさまでもなく、過剰さもない。さらっとクールに言ってのけた。
「悔しいすよね」
呟かれたもう一人の後輩は調子を合わせるように応じていた。悔しくともなんともないのが表情にも口ぶりにも透けて見えた。彼にとって半ば遊びのその日の結果などどうでもいいことだったのだ。
「リベンジしたいよね」
「するしかないっしよ」
「いや、ホント悔しいよね」
演技であっても公言し、リアルに振る舞い通せるのなら、それもありかなと私は思った。嫌な感じはしなかった。自分が求めている姿を見せていこうと心掛けているのだとしたら、そう律していこうとしているのだとしたら鼻につくはずがない。私としては自己変革の志は、どんなことであっても盲目的に是としたい。
「必ずリベンジするよ」
すぐに感情を口にしないで、一旦頭の中で審議するようにワンクッションおいて一語一語確認しながら呟くという風なわけで、大したものだと思った。
――彼は必ずリベンジを果たすべくその場に戻ってくるだろう。そして、やり遂げることだろう。その時演技ではない心からの歓喜の声を上げることだろう。
画面を閉じてからも彼のことが頭から離れなかった。
――偽りが本当のことに塗り替えられ、貴重な成功体験となり、自信と自己成長の礎になる……。
私は彼が出演している過去の映画作品を検索していた。
――真似をしようとしてもなかなかできることではない。常日頃の自覚と徹底、拘りの姿勢がそれを可能にしてくれるのだ。彼がそれを意思の力ではなく難なくやってのけているのだとしたら、稀有な、とても恵まれた資質の持ち主ということになるだろう。
下級武士役の時代劇と刑事役のミステリードラマの二本の映画を立て続けに観た。面白くはあったが、感激、感動したかと言えばそれほどではなかった。
無意識のうちに、彼の工夫、演じぶり、仕上がりを意識しながら観ていた。碌な鑑賞者じゃないことは確かだった。フイルターを掛けて観なくても、素直に映画の場面展開に身を委ねて鑑賞していればいいじゃないかと観ていて思ったけれど、観ようと思い立った動機が動機である。
素の彼の拘り、志の痕跡を掴みたかったのかもしれない。確認したかったのかもしれない。
人生は作品づくりに通じる、と言ったのは誰だっただろうか。
剣道、柔道のような武道でも、華道、茶道、書道のような文道でも、また舞踊や音楽、絵画などの芸事であっても、その至高に到達しようとする精進、励みは人生設計、自己変革と通じるものがある。
場面場面での自らの言動が自分の人生を刻み、形作っていく。雑な物言いや粗野な振舞いは、それなりの姿、足跡として残っていく。その人の生き様として、有形、無形の形で克明に色濃く定着されていく。訂正できない消し去れぬ記憶、痕跡を残していく。
振り返れば、厭な思い出、恥ずべき記憶の山が二重、三重にも積み重なっている。それらの記憶がなにかのきっかけで意識の上に蘇ってくれば陰鬱になる。苦々しく耐え難いものが湧き起こってくる。
家や車、ビルディングなど形あるものは変化を止めた、固定した姿かたちを現わしている。その時点で完結、完成したものである。不動不変のもののように見える。その完全無欠な佇まいになぜ惹きつけられ、魅入らされるのか。
生きている人間は固定、完了したものではない。未成熟、未完成感が半端ない。鈍化か、進化か、いずれにしても定まることなく、せわしなく形を変えていく。
彼の映画を観てからどれくらいの時間が経過した頃だろうか。彼の突然の死が報じられた。出演している映画撮影現場での事故死だった。
彼は監督のスタントマンで撮影するという計画に、自分でやりたいと強く要望し、その意欲に押された監督はそれを承諾した。
監督は事故後「なぜ彼がああまで実写に執拗に拘ったのか分からない」というコメントを発表していたが、私には彼の要望の根底にあるものが理解できた。裏に隠されているものがなんなのか分かった。彼の志から出たことなのだ。
役を演じるのに手を抜きたくない。危険にしり込みして逃げたくない。その場面も役柄を演じきることの一部分なのだからそれを回避したくない。挑戦したい。
彼の中のもう一人の自分がけしかけたのだ。演じることは、自分を絶えずそれに、その域に近づけていくことなのだ、と。
私は深く納得した。私はひと回りも年下の彼に明らかに嫉妬していた。