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失われし感覚を求めて

 
 当時私の心を魅了していたあの空気、包み込むような匂いをふと思い出した。
 すぐにパソコンを立ち上げたのだが、いざタイピンクする段になると、浮かぶ言葉や文章の齟齬に阻まれて手が止まってしまう。一刹那に掻き消え、捉えどころがなくなってしまっている。魅惑させられていた当時の記憶だけは鮮明で、それを頼りに探り探り言葉であの空気感を落とし込めようと試みたのだ。 
 あの初春から初夏にかけての空気感を感じとっていた感覚がいまは薄れてしまっている。時が経ちすぎてしまっている。
 魅惑の正体を絞り込んでいくきっかけすら掴めず、途方に暮れて腕組みしてしまう体たらく。失われてしまった感覚を蘇らせることなどできるのだろうか。
 自分から失われ、奪われようとしている魅惑的な淡い感覚、そして空気感……。
 思いを巡らせているときにふと浮かんできたうろ覚えの古文があった。
 
 初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぐ。梅は鏡前 (きょうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く、蘭は珮後(はいご)の香を薫(くゆら)す。
 
 元号「令和」のあの出典、「萬葉集」巻第五の「梅花歌三十二首」の冒頭の序文の一節だ。
 この古文の存在を元号発表時の解説で知った。つい最近の話だ。その定着された空気感に強く心惹かれた。その理由がいまになって分かった。
 中学、高校時代に感じとり、魅了されていた経験があったればこそで、その空気感こそがいま探り当てようとしているものに近かったのだ。 
 
 初春、月は清く輝き、気は澄み、風は穏やかに流れている。梅は化粧白粉のように咲き、蘭は匂い袋のような芳香を漂わせている。(意訳)
 
 大伴旅人が大宰府の長官「大宰帥(だざいのそち)」だったときに自宅に大宰府や九州諸国の役人などを招き、梅の花を詠む「梅花の宴」を開いた。天平二年(七三〇年)の正月十三日のことだったという。
 この歌会が開かれたのは旧暦の一月だから新暦では二月のことで、記憶にある時季は三月から四、五月なので、それより少しばかり早い時期だったようだ。初夏の若葉の香りをはらんだ爽風が蘇ってくる。まさしく薫風の頃までで、盛夏にはもはや感じられなかった。
 芽吹いて間もない樹々の若緑に囲まれた校庭や古い木造校舎の窓辺にたゆたっていた。鼻から吸い込めば矢庭に活性が高まってくるような、優しくそっと包みこまれ緊縮が解かれていくような。
 清涼、芳香、豊潤、柔和、和み、輝き、煌めき……。
 不如意な語彙や文章はことごとくふるいに掛けられ、弾かれてしまう。
 序文はさらにこう続く。
 
 曙の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾く、夕の岫(みね)に霧結び、鳥は縠(うすもの)に封ぢられて林に迷ふ。庭に新蝶(しんちょう)舞ひ、空に故雁(こがん)帰る。
 
 大都会では嗅ぐことができないのかもしれない。故郷のあの古い学び舎でなくてはならないように思えてくる。時は二月、まさに絶好の時季に差し掛かっている。
 思い立ったが吉日。早速スケジュール帳を確認すると、迷うことなく航空会社の予約センターにアクセスしていた。
 


 
 
 
 

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