星空の彷徨
百武裕司氏が急逝された。
四月十日の夕刻自宅で倒れられ、鹿児島県国分寺市の病院に緊急搬送されたものの、大動脈瘤破裂で蘇生処置もむなしく十九時四十七分に亡くなられた。
――連絡を密に取っておくべきだった。姶良(あいら)へも足しげく通い、関わりを深めるようにすべきだった……。
一枚の原稿ももらえていなかった。和彦は自分の未熟さ、能力不足を責められているようで居たたまれなくなった。
百武氏が自分の死期について、半ば冗談まじりに語っておられたのを思い出した。和彦はすぐに録音テープを引っ張り出してきて聞き直してみた。とても印象深かったのでどういう展開でその話がでてきたのか鮮明に覚えていて、難なくその箇所にたどり着けた。
「……期限は設けません。納得のいくものに仕上げたいと思いますので締め切りはなしということで。一年くらいかけてもいいと思っています」
「期限がないというのはいいですね。私はたぶん早死にしますから。五十いくつかでころっと逝くと思うんです」
「持病とかなにかお持ちなんですか?」
「なにも悪いところがないから、ころっと逝くと思うんです。これまでに病院へ行ったこともほとんどないんです。怪我で入院したことはあるけれど、病気では一切ない。だからたぶん野垂れ死にしますよ。薬もほとんど一切飲んだことがない。……どっちかが先に逝ったら、この話は終わりですね」
和彦は笑って応じている。
「明日のことは誰にもわかりませんからね」
二〇〇二年(平成十四年)四月十日、享年五十一歳だった。奇しくも自身の死期を言い当てられていた。
☆
遡ること半年ほど前の九月二十九日、和彦は取引先の出版社の定例企画会議に出席するために朝から出かけた。
この日彼は三本の出版企画を持ち込み、一本が採用になり、あとの二本が保留となった。
採用となったのは、九十五年、九十六年にたて続けに二個の彗星を単独発見し、世界に広く知られるようになったコメットハンター(彗星探索者)の百武裕司氏のもので、これまでの天文活動の歩み、宇宙、星への憧れと情熱、夢とロマンを綴ってもらうノンフィクション企画。
和彦はすぐに百武氏の勤務先の鹿児島県姶良町天文台「スターランドAIRA」に電話を掛けた。この時初めて百武氏と言葉を交わした。
出版企画の話をすると、即座に、これまでも似たようなお話はなんどかあったけれどもすべてお断りしているという返答が返ってきた。詳細な話もさせてもらえていないこの段階で諦めてしまっては、折角の機会を得ているのに、また新たな縁が生まれようとしているのにもったいないし、悔いが残る。
和彦は会ってお話したいと懇願し、なんとか鹿児島県姶良町にある「スターランドAIRA」でお会いする約束を取りつけた。
電話を切った後すぐに企画書の一部をファックスした。
彗星との出会いを求めて――宇宙を知ることは自分を知ること
日本人がこれまでに発見した彗星は六十五個。その六十三個目、六十四個目を九十五、九十六年と立て続けに発見したのが著者である。二番目に発見した彗星が九十六年の三月二十五日に地球に大接近し、三億人もの人びとに感動と夢を与えてくれた百武彗星である。
その頭部の直径はなんと満月の四倍、尾の長さは実に一億キロメーター以上にも成長し、もっとも明るく輝く彗星となった。記憶に新しいあのヘール・ボップ彗星をはるかに凌ぐ最大の天文ショーを繰り広げてくれた。今度この百武彗星に再会できるのは、一万七千年後である。
「宇宙はだれにとっても驚異の世界であり、その空間の広がり、時間の広がりには圧倒される。しかし、宇宙がどんなに大きくても私たちのハートには入る。生命一つひとつが宇宙を包み込む認識能力を持っている。無辺の宇宙であっても、私たちはこの小さな生命の中に包み込むことができる。その素晴らしさを知って欲しい。宇宙を知ることは、突き詰めれば自分を知ることである」と、百武氏は語る。
百武氏の彗星探索は今も続いている。彼の宇宙、星への憧れと情熱は一つや二つの彗星発見で到底消えるものではない。
百武氏の宇宙、星への憧れと情熱、夢とロマン、そして今日そういったものを忘れかけているわれわれへの熱きメッセージを存分に綴ってもらう。
〈構成案〉
プロローグ―星空に魅せられた夢とロマン
Ⅰ 「百武彗星」との運命的な出会い
Ⅱ 宇宙を知ることは自分を知ること
Ⅲ 宇宙の神秘、その底知れぬ魅力
Ⅳ 新たなる彗星を求めて
ファックスを送信して間もなく百武氏から「スターランドAIRA」のロゴマーク入りの送信票と地図が送られてきた。
「略 ファクシミリでは判読しづらいかもしれませんが、一応地図のコピーを送付します。土日は終日館の方に居ますのでご連絡ください」
八つの太陽系の惑星のなかで一番外側に位置する海王星よりさらに遠いところで生まれ、徐々にくっつきあって大きな塊に成長し、太陽系の天体や惑星の重力に誘われるがままに、周回軌道に乗るのを気の遠くなるような時の流れに身を任せて待っている。生命の源となる有機物の塵と氷の巨大な塊。地球生物の誕生の謎を秘めた存在……。
和彦は「彗星」について調べれば調べるほど、百武裕司氏の宇宙、星への憧れ、彗星探索への熱き情熱、ロマンを一刻も早く聞きたいという渇望、焦燥感を高じさせていった。
翌週の土曜日、和彦は朝一番の羽田発鹿児島行きの飛行機に搭乗していた。
一時間半ちょっとで鹿児島空港に着き、駅前のレンタカー会社で白のセダンを借り、スターランドAIRAへ向かった。溝辺鹿児島空港インターチェンジから九州自動車道に入り姶良インターチェンジで降り、県民の森へとつながる県道を北へ車で二十分ほど走らせたところにあった。
たまたまだったのか、山の上から和彦の白いセダンが上ってくるのが見えたのか、百武裕司氏はすでに建物の前に出ておられて、和彦を出迎える形になった。資料ファイルとテープレコーダーの入ったカバンを手に駆け寄り、挨拶した。
「百武先生ですね。先日お電話させていただきました天野です」
「遠いところを大変でしたね。道はすぐわかりましたか?」
電話での不愛想な受け答えとは違って、親しみのこもった笑顔で迎えられた。
「はい。地図をいただいておりましたし、こちらまでは一本道でしたので迷うことなく」
百武氏の案内でスターランドAIRAの建物のなかに入った。いきなり和彦の眼に百武氏が企業から提供・貸与されているという大きな双眼鏡が飛び込んできた。
二階の応接室に通され、百武氏は和彦がファックスした企画書を手に戻ってこられた。和彦は立ち上がり、名刺交換しながら改めて自己紹介した。
「電話でも言いましたが、これまでもこういう話がありましたけど、いつもお断りさせてもらってます」
応接椅子に腰を下ろすや否や、断りの言葉が飛び出した。
「まあ、せっかく今日おうかがいさせていただき、お目にかかる機会を頂戴いたしましたので、お話だけでも聞いていただけますか?」
返事も待たずに和彦はファックスしたものと同じ企画書を百武氏に改めて手渡し、資料ファイルを広げて、企画立案のきっかけとなった、日本経済新聞夕刊の『人間発見』欄に「夜空に夢とロマン」というタイトルで五回に分けて掲載になったコラムの読後感から話しはじめた。
和彦の話に区切りができたところで、百武氏が口を挟んだ。
「インタビューをされた記者の方が一応原稿になさったものに、私が訂正を加えるという流れで完成させ、掲載されたんですが、ほとんど私が書き直したも同然なんです」
「そうだったんですか」
和彦が応じると、インタビューアーの日経新聞社の経済解説部の記者の方とのやりとりや掲載されるまでの経緯についての話がしばらく続いた。
「その執筆されたものがきっかけになりまして、過去に先生が新聞や雑誌などに出稿されたものやインタビュー記事、関連記事のほとんどに目を通させていただきました。このファイルに集めたものはその一部なんですが、今日お会いしてお話しするうえで必要なものをまとめて参りました。またこれまでに講演されたものについては、録音テープなり録画されたものはお借りするかコピーさせていただくという依頼もいたしております」
「鳥取の佐治天文台の上田君でしょう?」
「あ、はい、そうです」
和彦は講演録音テープの依頼先をズバリ言い当てられて、驚きを隠さずに答えた。
「『星空散歩にでかけよう・自分流星空散歩のすすめ』と題して講演されたものですが……」
「先日私のところに彼から電話がかかってきました。送っていいですか、と言うから、送らんでいい、と答えときました」
百武氏は茶目っ気たっぷりな笑顔を満面に浮かべていた。
「なぜですか? どうして止められたんですか?」
「こちらに来られるということだし、また話が具体的に進むのはどうかなと思ったもんで」
「だからなんですね、すぐ送ります、とおっしゃってくださった割にはなかなか送られてこないので、催促の連絡を差し上げようかなと思っていたんです」
「私が止めたんです」
同じ笑顔のままだった。
次に和彦は企画書の構成案の内容に従って、百武氏自身に執筆してもらう小項目の詳細について話しはじめた。過去の資料から組み立てた仮の簡単な構成案だけに、時どき項目内容の質問を交えての説明とならざるを得なかった。
「九五年十二月二十六日に一番目の彗星を発見され、九六年一月三十日に二番目の彗星を発見なさった。この二番目の彗星が、頭部の直径が満月の四倍、尾の長さが一億キロメーター以上にもなり、もっとも明るく輝く彗星となった。話題にもなり多くの人が宇宙への関心を持つようになったわけですね。わずか一か月余りの間に二個も発見されたということを先生ご自身はどうとらえてらっしゃるんでしょうか? この時の状況はどうだったんでしょうか?」
「自分で狙っているエリアがあります。ほかのエリアでの発見報告はされていますが、私はこのエリアだけに的を絞って探索しています。皆さんは彗星が明るくなってから発見されていますが、私のやり方では明るくなる一週間前に発見できる。だから発見の自信はありました。
眼視で、三時間余り屋外で探索するわけですが、探索できる夜というのは十日行って五日くらいしかない。曇ったらできませんから。できるかどうかわからないあやしい日も探索に行っています。行ってできない日も当然あるわけですが、そういう日はただの夜のひとりドライブということになる。しかし私にとっては、そういう時間も大切なんです。双眼鏡を組み立てないでそのまま夜のドライブをして帰ってくるという日もあります。
春夏秋冬で違いがありますが、日の出前の薄明るくなる前の三時間。冬と夏では一時間くらいずれがありますが、その三時間しか探索に集中できない。それ以上は体力がもたないし、目が効率よく動かない。特に私は目があまり良くないですから」
「で、十二月にそのエリアで一番目の彗星を発見されたわけですね。一番目はあまり輝かなかったからみんなから無視されたとご自身で書かれていますが……」
「愛着はあります、あまり話題にならなかったけれど。その一番目の彗星を写真に収めようと出かけて行って二番目を発見しました。一番目を撮ろうとしたけれどその空域が曇っていてできなかった。一月の寒い日でした。その日そこだけしか晴れていないエリアに双眼鏡を向けたんです。そこを見ようとして見たわけではなくて、そこしか晴れているところがなかったから双眼鏡を向けて覗いたんです。するとそこに彗星があったんです。二十分も覗いてなかったですね。
一番目と二番目とでは、三度、視野一つ分なんですけれど。一番目を見つけた時にすでに周りの星もチェックしてるんですね、だから二番目が目に入ってきた時はなんのチェックもいらなかった。すぐわかりました。
真冬の明け方に脈拍が上がって倒れてしまって、そのまま動けなくなって心臓が止まったらこの発見はどうなるんだろう、と考えていました」
「発見されてから報告なさるんですよね。で、どなたに報告されたんですか?」
「国立天文台と天文計算家の中野主一さんに報告しました」
「日本で最多の彗星発見者の本田実さんが、一つ目を発見した時は大変な感動でその夜眠れなかった、と書いてらっしゃいますが……」
「私も眠れませんでした。だが、感動からではないんです。自分の発見報告が外にでるわけです。自分だけにとどめておけば誰にも迷惑をかけない。外部に出すということは世界に出すということです。出せば確認作業で何百人にも迷惑をかけるわけです。間違っていたらどうすりゃいいんだろうと考えるんです。大体発見報告というのは百に百間違いなんです。自分で百パーセントだと思っていても人のやることですから気づかない間違いがあるかもしれない。それに怯えるわけです。怯えというのは正確でないかもしれません。不安があるわけです。第三者が確認するまでは大変不安で、それで眠れない」
「中野さんとは面識はあったんですか?」
「一度だけあります。年に一回彗星会議というのがあるんですが、その時お会いしました。発見の一年前に、いや八か月前に初めてお会いして、眼視でやっています、発見したらその時はよろしくお願いしますと挨拶しました。その時疑わしくても遠慮しないでどんどん報告してきていいからねとおっしゃってくださった。軌道計算に命を懸けていらっしゃる方で、我々の間では神様みたいな存在です。
二番目を発見した後に中野さんと会う機会が何度かあったけれど、結局すれ違いばかりでお会いすることができないでいます。あれから三年近く経つんですが、不思議ですよね。直接お礼が言いたい。電話やファックスではなく、ちゃんとお会いして申し上げたい」
「中野さんとの対談も考えていますので、これがいい機会になれば幸いです」
「二つ目が見つかった時、家に帰ってから寝ている家族みんなを起こしたんですが、軽い反応だったんですよ。彗星ってそんなに簡単に見つかるのって」
当時のことを思いだされたのか、実におかしそうに笑われた。
「私ひとりを残して子どもたちは学校へ、奥さんは仕事へ」
…………………
自分のことをかなり調べてすでに知っていて、さらにもっと深く知りたいと真摯に近づいてくる相手に対して、人は自ずと相手との隔たりというか距離がなくなってきて、こころを開き、求めるものを与えてもいいような気持ちに傾いていくものなのではないだろうか。
百武氏も例外ではなく、話の途中から熱っぽく語る和彦の積極さに、求めている思いに応えてもいい、受け入れてもいいという気持ちに傾いていかれたように思われる。和彦も百武氏の受け答えに変化が表れはじめていることに気づいていた。そして仮構成案の説明の終わりに近づくあたりでは出版承諾の手応えを感じていた。
出版企画は百武氏に受け入れられ、あえていついつまでに脱稿という締め切りを設けず、仮構成案のプロットに一応沿って、小項目のテーマ内容で少しずつ執筆をはじめてもらうことになった。
具体的には、十枚なり二十枚なり原稿がまとまったところで送ってもらい、加減作業のやりとりをしながら脱稿を目指すことを確約してもらった。
テープレコーダーを止めてカセットテープの残りを確認したところ、ほぼB面の終わりに達していた。
☆
「出会い」と「別れ」についてあれこれ考えを巡らせていると、百武氏が書かれた東京新聞のコラムが浮かんできた。ファイル帳を捲るとその切り抜きはすぐに見つかった。
「ある夜、星空の片隅に限りなく偶然に星と人との出会う一瞬を迎えます。
その時の感激をどのように表現すればいいのか迷います。例えば懐かしい人に出会ったような、偶然の運命の巡り合わせに似た感情でしょうか。彗星の軌道は何万年も前から決まっており、彗星に比べれば一握りの私の人生との出会いです。宇宙の時と空間に触れたような気持ちです。その時、コメットハンターの情熱を支えているのは、きっとこの気持ちなんだろうと思われるのです。
(中略)
日々の彗星探索を支えているのは、未知の星との『出会い』にかける情熱だろうと思います。
人は、別れの時『出会い』の意味を知るといいます。さて、私の人生にとって、彗星との出会いは何であったのか……。とまれ、月明かりのない夜、もし空がきれいに晴れたなら太陽系の放浪者である彗星に出会うため、私の星空の彷徨は、続きます」
百武氏は、オーストラリアの砂漠まで出掛けて、百武彗星との最後の別れをしてきたという。これはその別れを果たした後に「星空の彷徨」と題して書かれた文章だ。
人は、別れの時「出会い」の意味を知ると書き、それに続けて「私の人生にとって、彗星との出会いは何であったのか……」と問い掛けているが、話は飛んで、今後も「彗星に出会うため、私の星空の彷徨は、続きます」と文章を結んでいる。
その他の書かれたもの、講演されたもののなかにも、その「彗星との出会い」の意味について明かされてはいない。
「出会い」の意味とは、人それぞれ出会うものが違うように、出会いの意味もそれぞれ違っていて当たり前だ。百武氏の彗星との出会いも、百武氏と彗星との間で生まれたことなのだから百武氏独自の意味があったのだろう。
彗星を求め続ける真摯な姿勢が百武氏の彗星探索への情熱を支えるものであり、彗星探索そのものが生きていることの確認だったのではないだろうか。
人は真に求めているものと出会うために生きているという。求めているものに出会うまで探索し続ける。そしてある時突然そのものに出会う瞬間が訪れる。そのとき生きていることを実感し、至福を得る。百武氏の彗星との出会いの意味は、自分が生きていることの確認であり、証ではなかったのだろうか。
和彦の心に百武氏の逝去が重くのしかかってくる。もはや百武氏の自著は未来永劫刊行されることはない。和彦はひとり突き放されたような、足元がぐらつくような危うさを覚えた。
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