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素直にかなり出社する

 五月に入り、週に一回は出社せよという通達が出た。
 私は出社することを厭わない。
 六百キロカロリーの消化、三十分のワークアウト、十四時間のスタンドという目標がスマートウォッチによって定められている。そして、さらに己に厳しさを課し、一日九千歩歩きたい。
 在宅だと、克己して一時間半くらいウォーキングをしなければ、目標には及ばない。されど、出社するだけで、一日の目標が無意識のうちに達成する。
 家から最寄り駅までの徒歩。東京駅から大手町駅までの乗り換え。地下鉄の駅から会社までの徒歩。ランチ場所を求めての彷徨い。飲み物補給。頻尿による無数の自席とトイレの往復。
 これだけで、私はムキムキマッチョな身体を手にするのだ。
 コロナ前でも体重は右肩上がりだったのではないか。
 未来志向の私は、過去を振り返らない。
 そして、美味しいランチだって食べられる。
 こってり家系ラーメン。濃厚魚介なつけ麺。あっさり東京ラーメン with 半チャーハン。牛丼大盛り。
 さらに、出社は電車に乗れる。毎日乗れば飽きる電車であっても、たまにの電車は貴重な自分のためだけの時間だ。
 私は出社することを厭わない。
 そういうわけで、社命として週一回の出社の通達が出た以上は、私は素直に出社する。通達が出ても出社しない不届き者がいる中で、私は真摯にも週一回ではなく週二回も出社した。出社前提の会議の翌日に、数ヶ月前に予約していた会社近くの歯医者の予約が入っていたせいだ。

 社命の目的は、社内コミュニケーションの活性化だという。出社すればいいわけではない。我が出社は、社命の目的に合致するのか。

「おお、すごいねえ。500ミリリットルのペプシコーラ。こんなに飲むの?」
 四十代半ばのくたびれたサラリーマンが飲むにしてはあまりの異様さに、パソコンに向かう私の背後から声をかけてきたのは社長であった。
 総務のマッツォーラさんの尽力によりオフィスのレイアウト変更の際に、新しくサントリー社の自動販売機が導入された。ラインナップはペプシコーラのほかに、デカビタC、ペプシリフレッシュショット、マウンテンデューなど、炭酸飲料が充実していた。コカ・コーラ派である私であっても、デカビタCのある魅惑的なラインナップの自動販売機を導入した総務のマッツォーラさんに敬意を表すべく、最近出社した際は一階エントランスホールのビル経営会社の導入したコカ・コーラ社の自動販売機ではなく、こちらの自動販売機を理由するようにしている。
 視線を一瞬私の腹に落とし、そして戻した社長は続ける。
「何がそんなにコーラがいいの?」
「いえ、コーラはですね。飲むとガツンとくる今日炭酸の刺激。カフェインの高揚。そして疲れた頭にガツンとした糖分がですね。」
「いや、でも太るよね。せめてゼロとかは?」
「あんな人工甘味料なものはダメですよ。自然素材ですよ。自然素材の砂糖。これがいいんです。」
 呆れ笑いしながらか、社長は社長室へ帰っていった。

 とはいえ、さすがに毎日コーラを飲むわけにもいかない。欲望のおもむくままにコーラを飲み漁るのではなく、己の強い自制心によって管理された中でコーラを嗜めたいものである、大人として。
 従って、翌日の出社では強い自制心を持ってコーラを絶たんと欲した。
 ただ、朝の通勤で身体はほとほと疲れた。
 昨日、コカ・コーラを貪り飲む私を期待して、コカ・コーラ社の自動販売機でドリンクを購入するとスタンプがもらえ、一定数貯まると無料でコカ・コーラ社のドリンク一本と交換できるCoke Onアプリのチームミッションに招待してくれた今方さんの手前もあった。私の尋常ならぬスタンプ収集により、いち早く無料ドリンクをゲットしたい今方さんの野望は止められない。
 コカ・コーラ社の自動販売機の前に立ち、リアルゴールドを購入した。
 イヤホンをしながらのオンライン会議中、背後から声が掛かった。
「おっ、今日はリアルゴールド!」
 社長だった。私は笑いながら頷き、社長は苦笑いしながら社長室に戻っていった。

 今日はリアルゴールドだけだと克己して、昼はほうじ茶をすすっていた。伊右衛門京都ブレンド。侘び寂びである。
 三時過ぎに、最近プロジェクトでよく関わる金沢さんに引きつられて、新卒二年目の鷹嘴さんが私の席にやってきた。
 鷹嘴さんとは、直接の面識はほとんどないが、Slackのやり取りは頻繁にしており、私は加齢臭漂うお局的な関わりをしては、おそらく彼女から煙たがれてるいるだろうと思われた。
 鷹嘴さんのメンターである金澤さんは言う。
「鷹嘴さんから渡したいものがあるのです。」
「いつもお世話になっていますから。」
 鷹嘴さんは、赤いラベルのコカ・コーラをおずおずと差し出してきた。
 二十歳くらい歳下の子にコカ・コーラをもらう。
 異様な恥ずかしさが我が身を襲う。
 ウヒャヒャ、ウヒョウヒョ。
 気色悪い笑い声が、静かなオフィスにこだまする。
 我が姿態はまるで妖怪のものであったという。マスクから溢れた頬はプルプル震え、肩は上下左右にクネクネし、腹の肉もプルンプルン震える。
 なぜ、鷹嘴さんが私にコカ・コーラをあげたようと思ったのか。
「あいつはコカ・コーラをくれてやれば、何でもする。」
 そう悪い先輩に唆されたのか。
 私は空気を吸い、水を飲むが如く、当然の顔をして、コカ・コーラを受け取り続け、その悪い先輩の仕事を優先してきた。悪い先輩と悪代官。賄賂である。
 その私の悪どさを歳上や近い年齢の同僚の中だけでなく、二十歳も年下の世代にまで伝わってしまった。
 私は「堕ちたものだな」と思った。

人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。 
坂口安吾『堕落論』

 よく冷えたコカ・コーラだった。
 私に冷えたコカ・コーラを今一階の自動販売機で買ってきたばかりなのか、冷蔵庫で冷やしていたのか。
 コカ・コーラと一緒に羞恥もゴクゴクと飲み干すしながら、私は堕ちる道を堕ちていく。

 私の座る席の横にコピー機に小山さんがいたので、声をかける。
「見ます、有山くんの今?」
「見る、見る!」
 一年半前に退職して、イタリアの大学院に留学した有山くんは、現在はワーケーションを掲げ、世界各国に移動しては、自身のインスタグラムに映える写真を投稿しては、私をして地団駄踏みたらしめている。
 この日の昼、有山くんがLINEで私に一枚の写真を送ってきた。
 同じく元同僚で世界のどこかにいるという草子さんとそのグローバルな彼氏、そして有山くんとのスリーショットであった。テーブルの上にはコロナビールとタコス。From メキシコであった。
「私たちの写真も送らない?」
 小山さんとツーショットでオフィス内で自撮りをして、送りつけた。
 一言「現実」とだけ添えて。

 コロナ禍後以降は、予定でも入っていない限りは終日会社にいることはなかったのだが、いつの間にか外は暗くなっていた。
 いつも帰宅時間は、子どもの寝かしつけの邪魔にならないに、唯一ある二十時二十一分東京駅始発で座って帰えるように、十九時五十分に退社していた。すっかりいつかの頃のこととなっていた。
 もう寝かしつけの必要もないが、いつの間にか、久しぶりに、そのいつかの時間となっていた。
 忘れていた、いつかのような会社の時間を過ごし、いつかのように同僚と会話した。
 しかし、明日はいつものように在宅としよう。

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HK
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