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小田急ロマンスカーでケビるのだ
「その髪型は実に素敵だね。まるで我が敬愛するアレクサンダー・ショルツを見ているようだ。」
私をして神と崇める浦和レッズの絶対的守護神アレクサンダー・ショルツに自身が例えられるとしたら私は有頂天になるが、女性の同僚に贈る賛辞ではないことはもちろん承知している。
強めのパーマを当ててウェーブする髪型は実に素敵で、「おっ、髪型変わったね!」と軽やかに話しかければ、おそらく円滑な社内コミュケーションの一つの風景となり得た(関係性によってはセクシャルハラスメントの可能性も捨てきれない)が、私は瞬時にショルツの髪型が脳裏に浮かんで、これは声を掛けられないなと思った。話しかけたら最後、私は間違いなく彼女に対して「アレクサンダー・ショルツ」という単語を発する。
頭に思い浮かんだものをアウトプットできず、さらに数式をいじるという徹頭徹尾の文系人間としてフラストレーションの溜まる仕事をし、しかもそれが不明瞭な要件定義で起きた事故からの復旧となれば、ストレスを発散したいと思うのも道理である。
「ケビるか。」
私は小さくつぶやいた。
ケビる。
広辞苑にも掲載されることのない全世界で2名しか使わない動詞である。
ケビンというニュージーランド人のエンジニアと同じ仕事をしていた。
彼には一つの趣味があった。
乗り鉄である。そして電車の中で、それは特急列車や新幹線に限られるだろうが、ノートパソコンを開いてプログラミングをするのだ。私には財力が追いつかず、とても実現はできないが、東京・博多間を新幹線で往復してプログラミングをしたこともあるらしい。
彼を羨み、私と、当時机を並べていた同僚の有山くんとで、このようなケビンの行動を「ケビる」と表現して動詞化した。
とっとと会社の仕事を片付けて、退勤する。
ケビると決めて予約した電車の発車時間は迫っていた。駅まで早歩きで行かないと乗り遅れる。
急いでいる私がエレベーターに乗り込まんとすると、まだ名前を知らぬ新卒二人が中途半端に後ろから歩いてくるのが見えた。エレベーターを開けておくべきか迷い、向こうもスピードを緩めたのを目視できたので、「閉」ボタンを押す。ドアが一度閉まった。しかし、再び開いた。新卒が外から「開」ボタンを押したのだ。
「すみませーん!」と言いながら新卒二人が乗り込んでくる。語尾を伸ばされるほど、私との関係性は深まっていないはずだ。そして、あともう一人乗ってくる。その後ろに私の昔の上司たる小山さんの顔も見えた。来客のお客様である。
少なくとも一分はロスした。私はメロスに己が心情を重ねた。走れ、走るんだ私。週末の草サッカーでミートグッバイ、つまり右太もも裏の肉離れが悪化しようとも、特急券600円のために私は走った。そして、これに乗れば間違いなく予約した特急へ乗り継げる地下鉄に間に合った。
地下鉄車内は混雑していた。夕ラッシュの一番混雑している時間帯だ。それなのにiPadを見ているサラリーマンが私の前にいた。混雑する車内にも関わらず、己がiPadも保有できるという財力を見せつける傲岸な輩めと後ろから睨むと、iPadの液晶には横浜DeNAベイスターズ対広島東洋カープの試合情報が映っていた。今日も頼むぞマクブルームとカープファンとしての血を思い出し、横浜スタジアムへ行く手もあったかと嘆くものの、もうすでに特急券600円を支払ったのだった。
新宿発の特急。
小田急ロマンスカーである。特急ホームウェイ片瀬江ノ島行18:20発。
異様に混雑する新宿駅構内に腹を立て、「やはり新宿・渋谷・池袋には金輪際近寄りたくないものだ」と決意を新たにして小田急線ホームに辿り着き、売店でビールを一缶買い求め、すでにホームで並んでいた人が全員乗り切ったロマンスカーの車内に入る。
乗ってすぐにロマンスカーは発車する。
すぐに副都心のビルは消え、ロマンスカーはゴミゴミとした区内特有の住宅地をそろりそろり進む。
ケビるとは特急の中でパソコンを開いて何かしらの作業をすること。そんな気はさらさら湧き起こらず、ぼんやりと車窓を眺める。
前の席の白髪混じりのサラリーマンの飲んでいる飲み物が目に入った。
「Chilling ピーチ&ベリー」と書いてあるピンク色の缶であった。
私はこの飲み物を知らない。車内で飲むものといえば、ビール、発泡酒、氷結、ストロングゼロ、ハイボール缶ではないのか。私が埼玉へ向かう電車のボックス席のシートでは見ることのない飲み物。そんな洒落た飲み物を私と歳がそんなに違わないだろうサラリーマンが飲むとは。
これが小田急かと思った。
そういえば、先ほど渡った多摩川ではSUP(スタンドアップパドルボード)をしている人もいた。埼玉の荒川ではまず見ない人種だ。
民度という単語も頭に浮かぶ。
されど、私は思い出した。
小田急沿線に居を構えた私の先輩だった人は、最寄り駅前のコンビニで大五郎の紙パックを買い、我慢できずに飲みながらそれを胃に流してこんでいることを。
要するに、人によるというたわいもない結論である。
ぼんやりしているうちに町田、相模大野を過ぎ、中央林間も通過した。
自分の日常とは離れた、都心から郊外へ向かう帰路へ急ぐ人々と同じ列車に揺られている、知らない他人の日常を間借りする気持ちとなる。
このまま片瀬江ノ島へ行ってしまいたいという欲求を抑え、大和で下車した。
東名高速だと遠く感じる大和もロマンスカーならあっという間。
開業してから乗ってことのない相鉄から東急またJRへの直通電車に乗りたかった。
ホームから階段を降りると崎陽軒の売店があった。
シウマイ弁当が食べたい。
しかし、私は諦めた。
相鉄線ホームに特急新宿行きが到着したからだった。慌てて駆け降りると、特急新宿行きの車両は埼京線の車両だった。
埼玉と東京を往復する見慣れた埼京線。一気に現実に引き戻され、硬いシードでスゴスゴと大和から武蔵小杉、新宿を通り、本物のアレクサンダー・ショルツの待つ埼玉へと帰るのだった。
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