あたしのからだ
家の近くを歩いていると、突然知らないおじさんが通りすがりに頭を撫でてきた。その人は女の人とふたりで道を歩いてきて、すれ違うときに、あたしの頭にさわって、よしよし、と3回くらい撫で回して去っていった。いきなりのことでびっくりして立ち止まり、パパのほうを振り返った。お姉ちゃんも「え…」と驚いた様子で、その場に突っ立ってパパのほうを振り返った。後ろを歩いていたパパとお兄ちゃんはすぐに駆けてきて「大丈夫?」と聞いた。あたしは何が起きたのかよくわからず、呆然として何も言葉が出なかった。
「あたし」というのは、もうすぐ小学校にあがる僕の6歳の娘である。彼女はなぜか3歳くらいから自分のことを「あたし」と呼ぶ。その日は子供3人と妻の誕生日プレゼントを買いに出かけた帰り道だった。あまりに突然のことで僕も一瞬、どうすればいいかわからなかった。距離は少しあったが、後ろから一部始終は見ていた。娘は姉の横で嬉しそうにスキップして家に向かっていた。そして確かに男はすれ違いざまに娘の頭を撫でたのだ。軽く触れるとかではなく、いい子いい子する感じで。
僕が娘のもとへ急いで行くと、ちょっと不安げで嫌そうな顔をして立ち尽くしていた。知らないおじさんからいきなり頭を撫でられたのだ。それはびっくりするだろう。これまでそんな経験は僕が知るかぎりなかった。僕はわずかな時間、逡巡したが、すぐに走って戻っていき、その男に声をかけた。
「ちょっと、なんでいま突然子供の頭なでたんですか?」
男が振り返る。30代後半くらいだろうか。少し顔が赤くなっていたので二人で飲んだ帰りだったらしい。おそらくだが、変質的な感じではなく、お酒を飲んだ勢いで上機嫌になって通りすがりの女の子を撫でたのだろう。突然の質問に対して彼は答える。
「はぁ? かわいかったから」
と男は平然と返した。
「いや、かわいかったからじゃないでしょ。娘の知り合い? 保育園の人とか?」
と僕は尋ねる。
隣にいた女性は何が起こっているのかわからない様子で戸惑っていた。彼女に向かって、すれ違いざまにこの人が娘の頭をなでたんだ、と僕は説明した。彼女は「え……」とドン引きした表情で、その男のことを見ていた。
「いやいや、大丈夫、大丈夫」
と男は彼女に向かっていう。
「いや、大丈夫じゃないって。知らないおじさんからいきなりさわられたら怖いでしょ。実際びっくりして怖がってるじゃん」
「わりぃ、わりぃ」
面倒くさそうに男はそういうので「わりぃじゃないだろ」と僕は怒った。「だから、ただ頭撫でただけじゃん」と男はいって、何か言いたげな彼女の手を強引に引っ張って、逃げるように去っていった。
6歳の娘は泣いていた。家に連れて帰ってもショックだったらしく、しばらく母親にしがみついて泣いていた。8歳の息子はとても怒っていた。次に会ったら絶対こうやってぶん殴ってやると息巻いていた。12歳の娘も「本当気持ち悪い!」「マジでありえない!」と憤慨していた。妻は悲しそうな顔で娘をずっと抱きしめていた。
このことを娘はすぐに忘れるだろうか。それとも嫌な記憶として残り続けるだろうか。翌日、同じ場所を歩いているとき、「昨日、ここで……」と悲しそうに話していたから、しばらくは覚えているだろう。その日、娘はなかなか泣き止まず、しばらく家族全員で娘のケアをしていた。
僕も悩んだ。ああいうふうに声をかけるべきだったのか。怒ったのは正しいことだったのか。その行為をただの好意と受け止めたら別の意味づけになったかもしれない。男は可愛らしい小さな女の子をつい撫でただけだ、と。胸やお尻ではなく、頭を撫でるくらい大したことではない、と。まだ子供なんだから、と。
でも、ふと思った。「あたし」のからだは娘のものであり、僕のからだではない。だから胸だろうと尻だろうと頭だろうと口だろうと、娘が嫌だと思ったら駄目なのだ。そしてあの時、娘は確かに嫌がっていた。そう思うと、やはりあの怒りは正しかったのだと、嫌なことは嫌だと伝えないと、と強く思った。大人の論理で考えてはいけない。子供も意志をもった人間なのだから。
あのふたりは、あの後どんなことを話しただろう。少なくともあの男は、いま娘がこんな状態になっていることなど、まったく思いもしていないだろう。あの女性はちゃんと怒ってくれただろうか。あなたの自分本位な考えで他人のからだに触ってはいけないと、しっかり諌めてくれただろうか。それともそんなことはすっかり忘れて「もう一軒いく?」とか「映画でも観て帰ろうか」などと話しているだろうか。
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