安倍元首相の事件を目撃した記者が旧統一教会の問題に感じた違和感の正体
8月31日の夕方のことだった。
国民民主党の玉木雄一郎代表が奈良市に来て、近鉄奈良駅前で街頭演説をするというので、僕はその日の作業をあらかた片付けてから取材に向かった。
駅前に着いた時にはもう演説の準備ができていて、仕事帰りと思われるワイシャツ姿の人たちが50人ほど集まっていた。しばらくすると近くに1台の車が止まり、中から玉木さんが降りてきた。拍手が起き、通りがかった人も目をやる。僕はリュックからデジカメとボイスレコーダーを取り出して取材を始めた。
マイクを握った玉木さんは歩道の指定された場所に立ち、にこにこしながら足を止めた人たちに語りかけ始めた。NHKの取材クルーが目の前にいるからか、物価高に対する党の取り組みなんかを説明する際は力が入る。
その時、ぬいぐるみを抱えた幼い女の子が、ちょこちょこと玉木さんの方に近寄っていった。じーっと演説を見ていたその子に、お母さんとみられる女性が声をかける。「後ろに下がってなさい」と言ったかどうかは定かでないが、手を引かれて聴衆の中に戻っていった。その後も演説は続き、小一時間ほどでお開きになった。
僕は一連の光景を見て、涙がこみ上げてきた。
「何事もなく終わって良かった」
心の底からそう思った。今こうして、その時の写真を見返しながら書いていても同じ思いに駆られる。
この note を読み始めた人は「突然、何を言うてるんや」と思うだろう。でも、僕がこの少し前、7月に経験したことを聞いてもらえれば、少しだけ理解してもらえるかもしれない。そう願って、あの日のことと、その後の思いをここに記したいと思う。
(奈良支局・酒井由人)
■ 選挙取材
僕は共同通信の奈良支局で行政担当の記者をしている。奈良県の新型コロナ対応や国政選挙、地方選挙の取材をして記事にするのが主な仕事だ。事件担当の記者がやるような「夜討ち朝駆け」をする機会はあまりない。妻と共働きで2歳の息子を育てる身としては、ありがたいポジションだ。
2022年最大の取材テーマは7月の参議院選挙だった。選挙取材というのは、大雑把に言えば複数の候補者の中から誰が当選するのかを見極める作業だ。候補者本人や支援者に話を聞いたり、投票所から出てきた有権者一人一人に誰に投票したかを教えてもらったり。こういう作業を積み重ねて、少しでも早く「当確」を打つための根拠を見つけ出す。
ただ率直に言うと、あまり好きな仕事ではなかった。
よほどの注目選挙でない限り、大きな記事を書く機会はあまりなく、文字にならない取材を続ける時間が長い。しかもこの取材には正解がなく、たくさん時間をかけることが良いとも限らない。僕の場合は、根を詰めすぎないようある程度のところで見切りを付け、「選挙が終わったら自分がやりたいテーマの取材をしよう」と心に決めていた。好きではないけれど、やらなければいけないこと。僕にとって参院選の取材はそういう類いの仕事だった
選挙戦の最終盤、奈良選挙区の自民党現職、佐藤啓参院議員の街頭演説があった。
前夜、佐藤さんの秘書から連絡をもらっていた。「明日は党本部から大物の応援弁士が来られます」。電話越しの声は弾んでいたが、僕はその時間帯、別の選挙関係者のアポを入れていた。しまったな、どっちを優先しようか。
ところがその翌朝、アポを入れていた相手から「今日は急きょあいさつ回りに行くことになった」と断りの電話が入った。僕は「それはしゃあないですね。分かりました」とだけ言って電話を切った。佐藤陣営から声を掛けられた街頭演説は午前11時ごろ。後輩の女性記者にお願いするつもりだったが、こちらの取材予定がなくなった以上、彼女に負担をかけるのも悪いなと思い直した。後輩にはチャットで「自民党の街頭演説、行けることになったわ」と連絡を送り、取材を引き取ることにした。
予定された時刻よりも早く、午前10時ごろに演説会場である近鉄大和西大寺駅に着いた。近くでは日本維新の会の候補者がマイクを握って聴衆に訴えかけていた。そういえば、他の候補者もここで街頭活動をするって言ってたな。維新の陣営関係者に軽くあいさつだけして、日陰で休む。
奈良選挙区は当初、現職の佐藤候補が盤石だと言われていたが、終盤になって維新の新人候補に猛追されているという情報が出回っていた。僕はぼんやりと周りを見ながら「歩いてる人は結構、維新のチラシをもらっていくなあ」と感心していた。
横を見ると、維新の後に演説を予定している自民陣営が準備を進めていた。その中に電話をくれた秘書もいた。いつもはスーツなのに、この日はオレンジのTシャツを着ていた。オレンジじゃなくて、奈良の名産物をイメージした「柿色」だと聞いた気もする。いつもは背広を着ている人がTシャツを着ているのを見ると、なんだか取って付けた感じがしておかしかった。「あれ?今日はスーツじゃないんですね」なんて他愛のないことを言いながら、少し雑談を交わした。
■ 視界の隅から現れた男
この日は暑かった。
参議院の選挙期間は17日間。毎日、県内各地を巡る候補者を追いかけるのはなかなかハードな仕事だ。休めるときは少しでも休みたい。そう思ったら、すぐ近くにあるスターバックスに足が伸びた。店内の片隅に、県庁の記者クラブで一緒に仕事をしている全国紙の先輩記者がいた。「あーどうも」と声を掛けながら自分の席を探す。考えていることは皆同じだなと思った。
街頭演説の取材で気にすることは、どんな人が見に来ているか、どれぐらい盛り上がっているか。支援団体から動員がかかっているのか、その人たちの応援の熱量はどれぐらいか。そういうポイントを見れば、候補者への支援の強弱を感じることができる。
僕らが気にしているのはそれだけじゃない。よく問題になるのは、応援に来た大物政治家が失言した時だ。差別的な言葉遣いとか、うっかり発言とか。そういうのは終始、耳をそばだてていないと聞き漏らしてしまう。失言問題に神経をとがらせる本社政治部の人たちは、何となく「怖い人」というイメージがあり、「ちゃんとやらないとな」という気持ちになる。一方で、炎天下での街頭演説は体力を一気に奪われるので、できる限り省エネで乗り切りたい。
そんなことを悶々と考えていると、あっという間に時間がたち、店の窓ガラス越しに見える演説会場の辺りには人だかりができ始めていた。
慌てて外に出ると、歩道には既にたくさんの人が列をなしていた。演説会場を見渡せるバスロータリーに移動すると、他社の面々も集まっていた。僕はそこにリュックを置いて陣を構え、デジカメを首からさげ、ボイスレコーダーの録音ボタンを押した。
自民の演説会が始まると、まずは地元選出の国会議員や地方議員が演台に立って場を温める。気合いの入った候補者の訴えも終わった。そして、最後の弁士として党本部からきた大物政治家の演説が始まった。
「彼はただの官僚ではありません。スーパー官僚だったんです」。テンポの良い語り口で、候補者を持ち上げる話が続く。僕は話を聞きながら、なじみの取材先とLINEをしていた。佐藤議員の演説内容が良くなったとか、こぶしの突き上げ方に勢いがあったとか。関係者しか気付かないような細かい情報をやりとりしながら、時折顔を上げて辺りの様子を眺めていた。
パッと周囲を見て、またスマホに目を落とす。その繰り返しだったからだろう。僕の視界は、演台にフォーカスするのではなく、広角で全体をとらえていた。
その時、視界の片隅から黒っぽいポロシャツを着た男が現れた。車道をゆっくりと横切ろうとする。「あんなとこ歩くなんて危ないな」。そんなことを考えていた。
男は車道の真ん中辺りまで来ると歩みを緩め、肩からさげていたかばんをぐるっと回した。その手元に黒い物体が見えた。
次の瞬間。遠くで大きな花火を上げたような音が2回聞こえた。驚きで我に返った。
「こんな昼間にどこで花火なんか」
そう思って演台の方に視線を向けた瞬間、くだんの大物政治家が倒れるのが見えた。スローモーションのように、ゆっくりとした動きに見えた。
とっさのことで、何が起きたのかは分からなかった。でも、何かが起きたということは分かった。
■ 「15分間」の取材
7月8日午前11時半ごろ、奈良市の近鉄大和西大寺駅前で行われていた自民党の街頭演説中、マイクを握っていた応援弁士の安倍晋三元首相が突然、背後から銃撃された。
どよめきと悲鳴でその場は一気に騒然となった。遠くから見ている人たちは一体何が起こったのか飲み込めていない。一方、安倍さんの周りでは慌ただしく人が行き交い、必死の救命措置が行われていた。近くにいたスーツ姿の警察官たちは容疑者に向かって突進していく。
安倍さんがいた場所は、僕が立っている所から15メートルほどしか離れていなかった。目の前で人が撃たれたのだ。さっきまで選挙演説が行われていた場所は、一瞬にして大事件の現場になった。
僕は首にさげていたデジカメのスイッチを入れ撮影を始めようとした。だがカメラのモニターを見ると「カードがありません」の文字。メモリーカードをパソコンに差しっぱなしにしていたのだ。「なんでこんな時に」。慌ててカードをパソコンから取り出すと、デジカメに入れ直し、車道に飛び出した。
山上徹也容疑者は警察官によって取り押さえられ、車道からバスロータリーの方に連れて行かれるところだった。追いかけたが、別の警察官に制止された。「ここはこれ以上、撮影できへんな」。そう判断して、演台の方にとって返した。
安倍さんは演台の脇でスタッフらに囲まれ、あおむけに倒れていた。白いワイシャツの左胸は赤く染まり、体を揺すられても目をつむったまま反応がない。デジカメを持つ僕の右手は震えていた。
僕はいったんリュックを置いていた位置まで戻り、デスクがいる大阪社会部に電話をかけた。
「奈良市の大和西大寺駅で、11時半頃、大きな音がして、安倍総理が演説中に後ろから撃たれました。全員、ここに来てくれって言ってください!」
冷静に状況を報告しようとしたが、興奮が収まらない。気持ちを抑えて丁寧に説明しているつもりだったが、たぶん叫んでいた。
デスクは「え、なんて?後ろが騒がしくて聞こえないな」とゆったりしたトーンで返す。電話の向こうでは、のんびりとした時間が流れている。そのギャップがもどかしくて「なんで伝わらんねん」といらだちが募った。スタバではのんびり過ごしていた全国紙の記者も、電話口に向かって「安倍さんが撃たれたんですよ。何やってるんですか!」と叫んでいた。
なんとかデスクに話が伝わって報告を終えると、僕は再び走り出した。ほどなくして救急車が到着した。ストレッチャーに乗せられた安倍さんが車内へ運び込まれる。その様子を撮影しようとすると、あの柿色のTシャツを着た秘書が両手を広げ、目の前に立ちはだかった。いつも温和で声を荒げることがない人だったが、この時は違った。
「ここは写真を撮るところではないでしょう。気持ちを考えてくださいよ」
「でも…それでも…」
なんて反論すれば良いのか、分からなかった。言い返す言葉を考える時間もなかった。僕はためらう気持ちを抑え込み、撮り続けた。
自分の目に映るもの、聞こえる音、感じた思い、すべてを記憶にとどめようとした。事件発生から、安倍さんが救急車で搬送され、山上容疑者が連行されるまでの約15分間、頭の中を整理する余裕もなく現場を駆け回った。現場でできる取材をひととおり終えた時には、息も絶え絶えになっていた。
しばらくすると、大阪社会部から応援の記者が続々と現場にやってきた。その後の取材は彼らに任せ、僕は当時の状況を再現するルポを書き始めた。あの瞬間に起きたことを一気に書き上げた。
気付いた時には、夕方になっていた。原稿のやりとりが一段落した頃だった。取材班のチャットで「死亡」の2文字を目にした。
「やっぱりあかんかったか…]
とっさに頭に浮かんだのはそれだけだった。翌日以降も事件の取材が続き、流れるように日々が過ぎていった。
■ とらわれた心、社会との「ずれ」
こんな事件が起こるなんて、思いもしなかった。おそらくあの日、あの場にいた誰もが「演説はつつがなく終わる」と思っていたはずだ。どこにでもある選挙活動の一場面として。政治家が多くの人の前で自分の主張を訴え、聴衆が拍手を送る。時にはヤジも飛ぶが、ほとんどの時間は穏やかに過ぎていく。あの日はそうした平和な営みが一瞬にして奪われてしまった。
少し大げさに言えば、何の心配もなく街頭演説を聞いていられるという当たり前の日常がどれだけ素晴らしいものなのか、身をもって実感した。同時に、一人の命が自分の目の前で奪われたという事実が、心の中でずっしりと重くのしかかった。被害者が誰なのかは関係ない。目の前で人が殺された、その事実が重いのだ。
だから、8月の玉木さんの演説が終わった時には、ほっとして思わず目頭が熱くなった。そして事件現場に居合わせたが故に、時がたつにつれ、社会との「ずれ」のようなものも感じるようになった。
この冬、事件現場で当時を振り返る取材をしている時に、高齢の女性からこう言われたことがある。
「旧統一教会の元信者さんの中には、山上容疑者のおかげで救われたと思ってる人も多いやろねえ」
たしかに山上容疑者が起こした事件によって、教団を巡るさまざまな問題が明るみに出るようになったのは事実だ。旧統一協会の会長が記者会見をした。教団と政治家の接点が明らかになった。政府は宗教法人法に基づいて、初めて質問権を行使した。実効性には疑問符も付くが、曲がりなりにも被害者救済法が成立した。テレビや新聞、ネットではそうしたニュースがたくさん報道されているのだから、かの高齢女性と同じように思う人も多いかもしれない。
でも、僕の頭の中には「それって本当に一人の命を奪わないとできへんことやったん?」という問いがずっとこびりついている。
まさか「安倍さんが亡くなったのは仕方ない」なんて、世の中の人もそんな風に考えているわけじゃないのは理解している。元信者や2世の人たち、支援者の方々は、起きてしまった事件とは別に「今、自分たちに何かできることはないか」と考えて動いているのだと思う。教団の問題について、これまで積極的に報道してこなかったメディアの側が、今回ばかりはきちんと伝えようとしていることも分かる。
だが僕にとっては目の前で起きた事件の衝撃が大き過ぎて、状況の変化に気持ちが追い付かなかった。結びついているはずの事件と教団の問題を、ひとつながりのものとして捉えることができなくなっていた。
国葬の問題もそうだ。元ファーストレディーである昭恵夫人は公人に近い立場だが、被害者遺族の一人でもある。そっとしておいてほしい、静かに安倍さんをしのびたいという思いはあっただろう。けれども遺族感情とは全く異なる次元で「国葬の是非」が取り上げられ、議論がどんどん進んでいったように見えた。
もし昭恵さんが一般人だったなら、社会の受け止めも違ったはずだ。配偶者が亡くなった直後から延々と取材・報道が続けば、必ずメディアスクラムが問題になっていただろう。だが、彼女の場合はそういう指摘がほとんど上がらなかった。昭恵さんの気持ちは分からないが、僕にはそのことがとても不憫に感じられた。
現場に居合わせた者として、事件に関することはどんどん書きたいと思っている。でも国葬に関しては身が入らなかった。当日は奈良県内で反対派の人たちが開いた集会に足を運んだが、取材というよりも、イレギュラーなことが起きないかをただ警戒していただけだった。正直なところ、国葬にも反対集会にもあまり興味を持てなかった。
あの日、あの場所で起きたことにとらわれ過ぎていて、そこから次のステップに進めない。世の中がどんどん次のフェーズに向かっているのに、ついて行けない。だから旧統一教会に関する報道や国葬を巡る議論に関心が持てない。そう気付いたのは、つい最近のことだ。
■ 現場を去った責任者
その一方で、事件に直接関係している人たちのことは、いつも気になっていた。
当時の奈良県警本部長だった鬼塚友章さんもその一人だ。彼は2022年の春に着任したばかり。これからという時に事件は起きた。僕は警察担当ではないが、一度だけ直接取材したことがある。発生から1週間くらいした頃だろうか。山上容疑者とみられる人物が事件前に、旧統一教会に詳しいジャーナリストに宛てて手紙を送っていたと読売新聞が報じた。共同通信もいわゆる「追っかけ」取材でその内容を把握し、その上で、これが本当に容疑者本人の手紙と言えるのか、各方面に確認取材を進めていた。
「手紙はもう読まれましたか」
出勤前の鬼塚さんにそう問いかけたが、彼は無表情のままだった。もしかすると、表情を変えられるほどの気力がなかったのかもしれない。息をするのもしんどそうだった。
鬼塚さんは県警が立てた警備計画の最終責任者だ。安倍さんを守り切れなかった結果責任は免れない。「警察は何をやってんねん」という世論の批判も日に日に強まった。彼自身も、事の重大さを受け止め、責任とプレッシャーで押しつぶされそうな日々を過ごしたことだろう。
8月25日、警察庁から県警の警備体制に不備があったことを認める報告書が発表され、鬼塚さんは記者会見で辞職する意向を表明した。僕はその日、体調を崩した子どもの面倒を見ていたので、取材には行けなかった。子どもの世話と家事が一通り落ち着いた時に、ネットニュースで記者会見の映像を見た。
「奈良県警は必ず信頼を取り戻してくれる。皆様のお役に立てるように歯を食いしばってやっていくので、応援をよろしくお願いします」
映像の中の鬼塚さんは、これまで我慢していた思いがこみ上げたのか、あふれる涙を気にせずに声を振り絞っていた。
「苦しかったやろなあ」
取材班の一人として、毎日のように彼の動向を気にしていたから感情移入していたのかもしれない。気付けばニュースを見ながら僕も泣いていた。
その4日後、僕は鬼塚さんが出席する県議会の総務警察委員会を取材した。
県警は安倍さんの事件とは別に、奈良西署で拳銃に使う実弾の紛失騒動を起こした上(実際には紛失しておらず、点検が不十分だった)、署員の一人を実弾の窃盗犯と決めつけて虚偽の自白を強要する不祥事を起こしていた。その署員は自白強要がきっかけでうつになり、休職したというから問題は根深い。委員会では、県議の一人から厳しい意見が飛び、鬼塚さんは言葉を一つ一つ選びながら平身低頭、答弁していた。
その委員会の最後に、別の県議が再び鬼塚さんに話を振った。さらに厳しい追及があるのかと思ったが、彼は鬼塚さんが過去の県議会で所信表明した時のことを振り返り始めた。
「これから奈良県の治安維持のために活躍するんだという意気込みを感じました。今回の事案は痛恨の極みと述べられましたが、私どもも痛恨の極みでございます。在職中のご活躍には心から敬意と感謝を表したいと思います」
着任からの日々を思い返していたのだろうか。固く目をつむり、口を真一文字に結んだ鬼塚さんは感情をこらえているように見えた。
その翌日、彼は職を辞した。
■ 僕がどうしても聞きたいこと
もう一人、気になる人がいる。あの事件で安倍さんの横にいた佐藤啓参院議員だ。彼の立場から見れば、自身の情勢が危ういと報じられたことで、安倍さんに応援演説をしてもらうことになった形だ。事件後も選挙活動を続けなければならなかったし、当選した後は政治の世界で前に進むしかなかった。気持ちの整理が付かない中、物事がどんどん進んでいく日々をどんな思いで過ごしていたのだろうか。
これまでにも何度か取材機会はあったが、佐藤さんが事件についての思いを語ったことはない。秘書を通じてインタビューを申し込んだこともあるが、やんわりと断られた。地元で講演会を開いた際は支援者しか入れず、メディアはシャットアウトだった。
自民党内への配慮があって、軽々しく思いを発信できないのではないかと推測する人も複数いる。政治の世界の細かい事情は分からないが、難しい立場に置かれているのだろう。彼の心境や置かれている状況は十分理解できる。けれども、記者としてはやはり話を聞きたいと思ってしまう。そういう葛藤をずっと抱いている。
そして最後に、山上容疑者。家族や親族、教団関係者など彼を良く知る人で、メディアの取材に応じている方はいる。でも、この人たちに話を聞いても、どうしても分からないことがあるだろう。山上容疑者本人にしか語ることができないことがある。
なぜあの時、あの場所で、安倍さんを撃ったのか。
僕が聞きたいのはただそれだけだ。その一言だけは、彼の口から聞きたいと思う。
本人に会って話ができる時を待ちたい。
事件直後に酒井記者が書いたルポはコチラ↓
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安倍元首相の銃撃事件に関する過去の note