評㊸“思考停止の美”考へ~太田信吾『最後の芸者たち』@plan-B、3000円
太田信吾作・演出、ハイドロブラスト第3回公演『最後の芸者たち』@plan-B、3000円。9/10~11。大阪・西成公演9/18~19、兵庫・豊岡公演9/24~25。上演50分。
出演:竹中香子、大崎晃信(10日)、太田信吾(11日)、演奏:内橋和久、芸者指導:秀美
コロナがやや収まった感あり、ダボハゼ🐟のように(?)観劇を続けて書いているが、もう少しすると多忙になり観にいくのが減る予定。
「最後の芸者たち」というタイトル、写真に惹かれ
芸術文化関係者はご存じ、「アーツカウンシル東京」。最近引っ越したらしく、東京・九段下は靖国神社近くの新しいビルに入っている。
芸術文化の創造、交流支援、助成などを行う、正式には公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京。
夏某日、そこを某所用で訪れた時に、置いてあった白黒プリントの文字が目に入った。「最後の芸者たち」。気になる。芸者さんの写真もキャッチ―だ。手に取る。
なんだろう。何かのパフォーマンスらしい。
「おもてなし」の演出を、俳優の身体を通し観察……?
「芸者文化に着想を得たパフォーマンス作品」
「一見あたりまえの『おもてなし』の演出を、俳優の身体を通し観察する試み」
「城崎温泉“最後の芸者”の秀美さんとの出会い」
「芸事の稽古、現役芸者への取材などを重ね、文化の継承、エンターテイメント・システムとヒエラルキー、身体的性別と性自認といった事柄を考察しつつ創作してきた本作」
……わからん。わかりますか。
東京公演の場所、plan-B、てどこだ? そういや、日にちは書いてあるが、上演開示時刻が書かれていない。ハコだけ押さえたか。「詳細は追って発表」というが、ウェブサイトに飛んでも、その時点ではよくわからず。
太田信吾とは何者だ。映画監督か。ハイドロブラストという集団は何なのだ。すみません、知らない。
偶然、岡田利規「ナラティブ」で踊って(?)る人だった
そうこうしているうちに、テキスト・演出:岡田利規『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』@彩の国さいたま芸術劇場小ホール(9/1~9/4)を突然観ることになる。あ、そこに出演している人ではないか。自分にとっては、全くの偶然だった。
評㊵岡田利規『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』@彩の国、4500円(2022年9月8日)
埼玉で太田の踊り(?)を観てトークを聞いた。
ん、これも何かの縁だろう。
「わかる(?)」反発と、「わからない」シリーズ
「わからない」シリーズである。
では、何が「わかる」(つもりな)のか、というと、
例えば、文学座『 ガラスの動物園 』(作:テネシー・ウィリアムズ、訳:小田島恒志、演出:高橋正徳)2019年6~7月@東京芸劇シアターウエスト、を観た時。亀田佳明はじめ、きちんと芝居していた。「んんん、わかった(?)、上手い、のだろう」。でも、これを「上手いですね」「さすがですね」とほめるだけでは、自分の中に(他の人は知らん)新しい何かが生まれないという、ほのかな恐ろしさが客席で芽生えた。反発か。
新劇だからと決めつけるつもりはない。いわゆる固定ファンの多い客席で周囲の雰囲気に合わせて「わかったふり」をするのが苦痛だったのかもしれず。またいつの日か見直せばが、違う何かを発見するかもしれぬ。
はさておき、何かにからめとられることへの反発からか(これが、アングラ世代が感じた者か?)、別のものを探してふらふらしていると、太田信吾に遇ったりするわけだ。
芸者取材をし、芸者修行をし、芸者社会の未来を探る太田
その後、どこかの公演の折り込みで、ちゃんとしたチラシをゲット。
チラシには太田の言葉。長いが、一部を引用する。
ん、志はまあまあ。しかし、何をするのかいまだ不明。ま、岡田利規で予習しているから、とにかく観にいこう。
チケットをゲット。せっかくだからトークのある回にしたが、太田信吾でない人が演じ、トークにも太田は出ない日だった。チラシの字が小さすぎて読めませんよ、まあいいけど、たはは。
「こんばんは」とイヤホン装着から始まるパフォーマンス
さて当日、plan-Bは、中野通り沿いの、ファミレス近くの小さなスポットの地下。待合場所がある。トイレは男女共同が一つ。
小スペースだが、客と客の間に間隔を作り、数十人が段々に座る。
始まった。芸者姿の女性(芸者1)が出てきて客席に軽く礼し「こんばんは。よろしくお願いします」と言ってから、おもむろに取り出したイヤホンを耳につけ、そして動き始めた。
芸者さんの一日。外面と、もやもやする内面
これは、なんだろう。後のトークでわかる。そして台本500円が売っていたので後で買った。それを読んで意味がやっとわかった。
後で買った台本で補足すると、筋は、ざっとこんな感じ。
芸者1は両手を前に出し、ふらふらし、何だか動いているのだが、いわゆる「所作」とは違うダンスをしている(深呼吸、風船、などイヤホンから台本が流れていたらしい)。「おおきに」「おいでやす」。『潮来出島』という演目の練習を始める。そのうち、芸者2が出てくる(男性)。ふたりで動き、歌い、踊る。「それじゃあお姉さん今日もお頼申します」。ふたりで座敷に出かけていき、座ってふすまを開ける動作をし、お酌をする。「ええ、ええ、ええ、ええ」と客の愚痴を聞く。「おつぎしましょうか?」「どうぞ」「おおきに」。芸者1が『潮来出島』『奴さん』を踊る。芸者2「どうもおめだるでございました」。再び客たちにお酌。「おもてなし」の話が出て、ラップみたいな曲をどんどん歌い出し、わーわー状態になって二人転がって寝る。朝が来て、鳥の声。芸者2はずっと寝たまま。芸者1は起き上がり、お座敷の残飯を捨てる。
芸者さんの一日、を、外面と、実はもやもやする内面との双方にわたり、拾い上げ、身体で表現した、ということか。あくまで自分の受け止め。
台本は読んでみると微に入り細に入り、非常に丁寧にそれぞれの場面の台詞、動き、所作などが書かれていた。これが全部イヤホンから演者に流れていたのなら、一種のリーディング劇っぽいが、詳細は不明。
コンテンポラリーダンスの人からの日舞への視点
トークは、自分には参考になった。
男性芸者を演じた大崎晃信に、ゲストは余越保子(振付・演出家、映像作家)。余越はニューヨーク在住。2003年と2006年にベッシー賞(ニューヨークダンスパーフォーマンスアワード 最優秀振付賞)を連続受賞。
作品に関しては、長ーいプロローグから、段々働く部屋の話になって、五輪関連「おもてなし」、座敷に行く。と、説明。そうか、そうだったのか。
余越は、コンテンポラリーダンスの人として、日本舞踊を習ったという。
以下、余越が太田と話したことをメモ書き(まとめるパワーがない)。
・コンテンポラリーダンスと伝統舞踊は遠い。時間、空間、振付、日々の身体性、所作。例えば、移動する時は、特にお師匠さんの前は絶対に横切らず、さささと座り動きしながらみんなの後ろを移動する、ような。
・芸者さんの所作は、酒をつぐお酌にもあり、綺麗に見せる。
・日舞の中にもその動作を取り入れた部分があり、それを延々とやるので、体幹の強さが求められる。特殊な身体訓練、足首の柔らかさ。
・着物を着ることで着物に振り付けられている。
・(着物ではないが)ホステスは男性目線で綺麗に見えるように酒を注ぐ、ホストは女性客に魅力的に見えるように酒を注ぐ。
・(芸者の、お座敷での芸は)師匠より怖い、お座敷の(客からの)「圧」を間近に受けながら、狭い空間で、舞の価値を見てもらう。
・例えば「娘道成寺」を舞台でやるとなると、「お金がかかる」。
コンテンポラリーダンスの人から見た日本舞踊、その視点を知った、聞いたことが収穫。違う世界の人から見た方が、物事がより理解できる。
勝手な妄想、「思考停止の美」考へ
ここからは素人の勝手な妄想考である。申し訳ない。
特に伝統芸能の世界は、種類にもよるし、私見だが(すみません)「質問してはいけない」「ひたすら師匠、先輩に従え」的なイメージが強く、「なんでこんなにお金がかかるんですか」など問うことすら全否定されそうだ。その世界を知りたいけれど、知るために初心者として入門することから始めろ、というのであれば近寄りたくないような。でも、それが「日本の伝統」なのか。
伝統芸能の「芸」とは、行儀作法、上下関係も込みの「芸」か、と改めて考える。
あれこれは聞かずに、とにかく師匠を尊敬し従う。
これは、幼少期から有無をも言わさず「芸」を仕込まれる人たちの世界で、装置を維持するための一種の「所作」ではないか。幼少期から仕込まれた「芸」を否定されることは、装置全体の破壊につながる。そこで、「師匠や先輩に黙って従う」という「思考停止」を経ることで行きつく「美」、のような気もしてきた。
その世界の「教え」を守れば、ある程度、外界から守られる。仲間になることの証。
外面から入る美。いや、外面は内面なのか。
思考停止は、悪いばかりではない。人生において、思考停止の時間も必須と思われる。
24時間365日、考え続けていたら、脳みそが爆発する。
睡眠以外にも、ちょくちょく「思考停止」の時を持つ。
忘我。といえばもっと聞こえはいいか。
芸術を「忘我(≒思考停止)」の手段とするか、「思索」の手段とするか、は、その人間の人生次第で、ただし、本人が意識的に選び取っているかどうか不明。
と言う意味での「思考停止の美」。
ただ、人間は二面性の動物であるから、外面も内面も思考停止のパフォーマンスはずっとは不可能ではないか。思考停止の外殻に覆われたパフォーマンスの中でこそ、思索が蠢いたりもするのか。
それを「型」と呼んだら、どやされ、ますか。
日本には、生まれながらの宗教(一神教)という「同一性」はほとんどない。ならば、あえての「型」はありうるか。
……など、まとまらない妄想の泥海に、尻をさらけ出したまま突っ込んでいく。