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評⑫続々さいたまゴールド・シアター最終公演千秋楽

「お席のお間違えが多く…」「この後葬式……」

 で、やっと劇場に着く。開場前30分を切っており、トイレを済ませてそそくさと席に着く。高齢者演劇ということもあり、男女問わず白髪頭、白髪交じりのお客さんが多い。「会話は控えてください」のパネルを掲げて歩くスタッフの人は、「本日、お席のお間違えが多くなっております」と呼びかける。そうなのか、そうなのか。。
 近くの席で、「今日はこの後お葬式なんだ。この人たち弔うわけじゃないけどね」「ああ、そうなんですかあ」という会話。そうなのか。パンフで出演者の名前を挙げていたので、知り合いか、少なくともリピーターだろう。

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上演開始前の様子。大道具然とした光景の中央に水道が置かれ、ずっと水が滴り、その音が響いている

 ちなみに、ここまで偉そうに書いてきたが、自分はゴールド・シアターの初見にして最後である(ゴールド・アーツというのは観ている)。ああ、前に観ておけばよかった。比較が難しい。せめて他集団上演『水の駅』でも観ていれば。。とりあえず、最近見たSCOTの動きと比較することにする。

さて、始まる

 さて、始まる。上演時間約2時間。途中休憩はない。
 以下ネタバレあり。
 そこに、水がずっと滴り落ちる水道の蛇口がある。上演前から水の音がしている。

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がらがら音がして、大道具然としたものを黒子たちがどんどん動かしていき、最後には水道を残してなくなる。代わりに「ガラクタ山」が下手やや奥に登場。舞台奥行きはかなり広い

 登場は上手奥→下手前→下手短め花道で、この「上手奥→下手前」の真ん中少し前寄りに、柱に取り付けられた水道の蛇口があり、下に四角い水受けがある。

上手奥から下手前へ人々が動く。「ガラクタ山」に誰かいて、その様子を見たり、見なかったり

 記憶の限りだと……走り寄ってきて、滴る水に気づき、その水をコップで飲む。手で受けて飲む。2人で交互に顔を摺り寄せすすり、最後にはその勢いでキスする。水を争い小競り合いする。蛇口をまさに舐めてすする。そばで男女がセックスらしき振る舞いをする。そばでおそらく自ら死ぬ。その遺体を見つけ、布に乗せて引っ張って引っ込む。足を見せつけるように流れる水にさらす。水受けに顔を突っ込んで水を飲む。水受けに相手の頭を突っ込んで窒息させようとする。抱き合う。そばを掃除する……終わりかな……また走ってくる。
 誰かが水を受ける都度、音はいったん途切れ、離れると、また水の音がする。

 無言劇なので身体や表情をじっくり見ていた。
 途中、隣の人がこっくりこっくり居眠りしている。無言劇だもんな。
 また途中、自分のお腹が空腹できゅるきゅる鳴り出す。やばい、が、止めるすべもない。

身体、所作と表情を凝視する

 さて、身体の感想。
 アマはそもそもバラバラ。プロが最初や途中の選考を経て「粒ぞろい」にしているとすれば(あくまで「とすれば」の仮定)、アマは良きも悪しきもバラバラ、が特徴と言える。
 ゴールド・シアターは1011人応募、47人でスタートと20倍以上競争を勝ち抜いた「エリート」であり、かつ発足から15年継続しているので、純粋なアマチュアとは言えない。稽古は週5回。アマは公演直前を除き週1~2回であろうし、巷の“プロ”と称する集団でもみっちりやっているとは限らない。

 ……でゴールド・シアターがアマかプロかをいったん置き、しつこいが、富山・利賀村の鈴木忠志「SCOT」をプロ劇団として、比較する目で見た。
 台詞がないため、所作と表情がメーンとなる。

 背中の丸まり(立ち姿)
 歩く際の足の運び
 立ち姿から足を曲げて座る動き(しゃがみこみ)と安定感
 しゃがみこみからの立ち上がりの脚の動きと安定感
 手の動かし方
 表情

 確かに背は若干丸い気がするが、その実年齢を演じているとすれば、相応の丸まりではないか? それにその程度の丸まりは“プロ”でも見たような。
 足の運び、しゃがみこみと立ち上がりは、ややぎこちない人がいる。
 表情はそれこそ、バラバラ。思い入れ一杯の人もいれば、街中で見るようなぽけーっとした人もいる。しかし、それもリアルと言えないか。
 ……と、頭を悩ます中で、明確に発見したと思えるのは、少なくとも舞踊なりダンスなりの基礎は、シアター結成・参加前に備えていたに違いない身体の人がいたことだ。少し前に観たSCOTの役者たちのような「筋だった脚」を見た気が

 ……しょせん年寄りの冷や水ではない。プロを目指す集団には間違いなく、プロと言えるのかどうかは、自称プロの人たちに観て判断してほしかった水準だ。

「凝縮」がそこにある

 そして、「凝縮」がそこにある。
 実は、劇場に向かう電車で森村誠一『老いる意味 うつ、勇気、夢 』(中公新書ラクレ)をパラパラ読んでいた。その中に、確か、「凝縮」という言葉があった気がする

 無言劇であるからこそ、客は(自分は)、そこに「意味」を求めようとして、目を皿のようにして見つめる。すると、勝手に、その人の人生を想像、創造してしまう。その身体に「凝縮」されているのだ、その人生。そこまで既に、数十年を経ておいてきた身体がまとうもの。
 少し離れて「プロ」のことを考えると、10代、20代から演劇を辞めずにしがみついて70、80代まで続ければ、その50年なり、60年なりは「凝縮」されているはずだ。剝がそうとしてもとれない、くらいに。
 それはもう上手い下手、というより、その人史であり、50~60年の演劇プロとは異なる、40~50年の人間史∔プロを目指した15年史を抱え持つゴールド・シアターの面々がそこにいた、はずだ。
 「異なる」ことと、「上下」は、異なる。うん。
 まだ思考が混乱しているが、とりあえず、この先も考え続けたいと思う。

カーテンコールは金色の紙切れと今ここにいない仲間の写真

 さて、冷静に見ていたつもりだが、最後の方は「今日は千秋楽だし、既に引っ込んだメンバーはもう出番がない。楽屋で泣いているのか」と想像して涙腺がゆるみ、最後にライトが消えたところで泣いてしまう。もはや、この辺において、もともと危うい客観性の崩壊。 

 カーテンコールでは、蜷川さんの大きな写真が後方に掲げられ、メンバーがずらりと前に並び(車いすの方も2人ほど)、順に「〇〇〇〇、85歳!」など、順に自己紹介をした。
 上から、金色の紙切れが雪のように降ってきた。ゴールド・シアター旅立ちへのはなむけであろうか。
 何度か引っ込み、やまない拍手の中、3度目か4度目には、それぞれが額縁に入った高齢者男女の写真を掲げて出てきた。途中で亡くなった仲間と思われる。発足時の47人から33人(今回出演しないメンバーでパンフ掲載分含む)に「変化」したのだ。
 スタンディングオベーション。本当の最後だから。そして、終わった。
 この人たちは、明日から何をしていくのだろう。

「感動した」「わからなかった」との声と共に

 時々寝ていた隣の人が「感動した」という。そうか。
 ホールに出る。「わからなかった」という声も複数聞こえる。そうか。
 寒いので駅に急ぐ。「前はチケットとれなかったんだよ。蜷川さんが亡くなって前ほど売れなくなったみたいだけど」。そうか。
 さようなら、蜷川さん、さようなら、ゴールド・シアター。

 与野本町駅から電車に乗る。少し早い夕日が綺麗だった。

 
 

 
 


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