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評㉓小池博史『Milky Way Train-138億光年の憂鬱』@スタジオサイ3700円

 この観劇(2月半ば)から結構日数が経過している。
 小池博史(元パフォーミングアーツグループ『パパ・タラフマラ』主宰)のこれまでをあまり理解していないので、その著書を読んだりした。

 小池博史はwikiによれば「日本の空間演出家・作家・振付家・映像作家。自身の表現を空間芸術としている。現在、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科教授」。1956年生まれ、66歳。なんだろう、空間芸術って。
 観劇当時の記憶が薄れて、相変わらずまとまらない。さらに、長いだけでなく、相当硬い文章になっていると自覚する。これは、小池の著書が結構硬めの文章だった(と自分が受け取った)せいか。中身がやや濃い話なので、なかったことにすると自分が抱え込んでしまって重い。自分の覚え書きのために、書く。

言葉と身体、そして舞台芸術にしかできないもの

 「評⑲天使館ポスト舞踏公演『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』5000円」(2022年3月10日)でも触れたように、「言葉と身体の関係」は、演劇とは、舞台芸術とは何かを考えた際、永遠の課題。そして、小池は自著(後述)に於いて日本の演劇の戯曲中心主義を明確に批判しており、舞台芸術にしかできないものを創るとしている。
 繰り返し、言葉と身体の関係は、演劇を観るうえで、また、人生を過ごすうえで、自分自身にまとわりつく課題だ。自分としては、言葉は、決して分かり合えない他人同士をつなぐ強力なツールとして大きな存在であり、舞台でも使い方次第で大きな威力を発揮するものと思うが、その“塩加減”や、受け取る客側の「アンテナ」の強弱やベクトルの方向性で、時に押しつけがましいこともあると感じる。小池の考察は参考にしたい。

  この『Milky Way Train~』は、『天日坊』=「評⑱コクーン歌舞伎再演『天日坊』一等席12500円(割引)」、素直に面白かった」(2022年2月15日)の前日に観ている。歌舞伎と現代演劇を組み合わせた天日坊は自分としては高評価でもあり、あえて再演期間中に評をアップした。

『天日坊』は伝統芸能と現代演劇の“境界線”に存在

 ただ、『天日坊』を面白いと思ったからと言って、伝統芸能者を諸手を挙げて評価したわけではない。日本の演劇を考えるうえで、伝統芸能と、物心つかない頃からつまり自分の意志に関わらず訓練されてきたその芸能者の身体は外せない、その意味で現代演劇との比較をしつつ味わえる作品だった。鍛錬された伝統芸能者の身体と存在感は確かに魅力的だが、かなり以前、ある現代演劇に歌舞伎の有名役者が出て「どうだ」とばかりに見得を切って「浮いてるな~」と感じたこともある。
 天日坊を観て「これが歌舞伎だ」と思っても、もちろん違うだろう。ただ、伝統芸能と現代演劇の“境界線”に存在し(伝統芸能の方がやや配分が多い)、その立ち位置自体が観客の脳みそを固くさせ過ぎずにかき回し、あれ、なんか面白い中に新しいでも古いでも新しい感覚が降りてくるような、そんな可能性を感じさせる作品だったと思う。多分、観客が何をつかむ、つかみやすい。つかみやすければいいとは限らないが、制作者の計算は緻密だ。コクーン歌舞伎の一連の作品にも言えるのだろうが、天日坊は人気が高く再演された“成功作”であり、おそらくそれほど外していない。

 さて、小池博史『Milky Way Train-138億光年の憂鬱』@スタジオサイ(中野駅北口)、全席自由3700円、学生2200円、3歳以下無料。
 ブラックボックスならぬ、少し薄汚れた白いというかベージュというかホワイト・ボックスのレンタルスタジオでの開催。座布団やパイプ椅子など50席程度。2/12(土)、2/13(日)の2回公演。62分(休憩なし)
 小池は、日本における舞台芸術のジャンル分けに批判的で、「舞台でしか見せられない表現」を目指すという。

美術館で流れる映像をもっと作り込んだイメージ

 で、この日観た「空間芸術」から自分が受けたイメージは、おしゃれで静かな美術館で時々流れているなにかの映像を、もう少し本格的に作り込んだものがそこで演じられている、という感じ。小池は若いころ建築を目指していたし、今はムサビという美大の先生だし、ムサビはあまり「演劇演劇」していないから(日芸とか桐朋短大とか桜美林とかに比べ)、そんな感じか。
 身体表現と、照明と、音楽と、映像。かなり絞り込んだ台詞。パフォーマーたちの身体はなるほど多分鍛えられ、微妙な位置取りでもゆらゆら動いたりはしない(プロなら当たり前か)。全体を貫く「銀河」「宇宙」のメッセージに、宮沢賢治の銀河鉄道や羊水に漂う胎児の映像がからみあう。そうして、宇宙を旅した、ということは伝わった。明確な結果は求めない。

「共通言語」は何か、それは身体なのか

 ふうむ。『習作』かな(実際、実験作らしい)。3700円だしな。でも、ここは自前のスタジオか。
 銀河鉄道のイメージが観る人にあらかじめインプットされている、という前提で作られたのかどうか。
 言葉をできるだけ削減した中でも、結局はある程度の「共通言語」がないと、響き合うものは生まれないのではないか。そんな疑問がわいた。他人同士で分かり合うには(分かり合う必要があるとしてだ)、言葉か身体(顔の表情も含めて)のいずれかになる。身体か。人間は身体で分かりあう場面を例えばセックス以外にそんなにたくさん持っているのだろうか。
 ……観劇から時間が経ちすぎて、新鮮な感想がどこかに消えてしまって意味不明だ。無念。

著書から抜粋した小池の考え

 以下は、小池博史『新・舞台芸術論 21世紀風姿花伝』(水声社、2017)から、私が特に興味を持った部分を抜粋したもの。小池の頭の中で多くの言葉や理論がせめぎあっていることが想像される。
 伝統芸能者の部分では、歌舞伎役者を観た自分の感覚に近いものを感じる。

小池博史『新・舞台芸術論 21世紀風姿花伝』(水声社、2017)。付箋を貼って読んだ

舞台芸術とは

 私が考えた舞台芸術とは、舞台芸術としか成り立たない言語を獲得した芸術(33p)
 舞台芸術にしかできないのは、観客の想像力を押し広げ、実際に見えている範囲を超えて、見えないものを見せられることである。(65-66p)

小池博史『新・舞台芸術論 21世紀風姿花伝』(水声社、2017)

ことばに関する考察、戯曲中心主義への批判

 ことばは文化を育て、理解を助け、可能性を作り出すが、その一方でイメージを狭めてしまう役割も果たしてきた(39p)
 小山内(薫=築地小劇場設立者のひとり)の考えた近代演劇は、語るための戯曲を優先し、戯曲を正しく表現する媒介として演出があり、演出に基づいての演技がある舞台作品であった。この流れは未だ強く演劇界を覆い、観客の意識に染み付いている。(40-41p)
 日本の近代以降の演劇は西洋演劇を模して、戯曲文学の形象化を図ってきた。しかし、古典を紐解けば、京劇、能楽、歌舞伎……世界中の芸能のどれをとっても、真っ先に戯曲ありきではない。声ありき、動きありきである。(略)舞台芸術は原初的動機があって誕生し、はじめに声と動きがあったと強調したい(略)いつの間にか演劇は意味の 延長上に置かれるようになり、戯曲が極端に重要な役割を担うようになった。(182p)

前掲書

画期的だった安倍公房

 安部(公房)は次のように述べている。「小説は考えて書くものではない。書くことによって考える作業である。同様に、舞台表現も、戯曲をもとに演出されるのではなく、俳優をつかって舞台空間に戯曲を創り出す作業のような気がしてならない。つまり、戯曲は舞台の出発点なのではなく、到達点かもしれないということだ」……戯曲について述べているが、安部は逆説を語ったのではない。これが舞台の本質である。言い換えるなら、「身体を使い、音を感じ、空間にモロモロ配置していく途上で、舞台芸術にしか起き得ない化学変化を作り出し、その結果、戯曲として纏まるのが舞台」となる。しかしこの本質は未だに演劇界に於いては傍流だ。(67p)
 ともあれ、安部(工房)が画期的だったのは、空間と時間と身体が完全に等価の位置に立った点にある。(略)ドラマの演じ手や踊り手が主体ではなく、人の身体を含む時空そのものが主体化した。(67p)

前掲書

映像と舞台芸術の違い

 鑑賞者が自らの力でイメージを増幅させ、舞台上の人物にズームイン、アウトを繰り返しながら舞台鑑賞は行われる。(略)映像ではこんなマジックは怒らない。作家の意のままにカメラ側でズームイン、アウトを行い、飛びたいところにカメラは飛んでいき、観客はその流れに身を任せればよい。舞台はそんなわけにいかない。空間はほぼ固定されているから、観客の脳に委ねられて、マジカルな脳内変換を無意識のうちに行わざるを得ない(110-111p)

前掲書

伝統芸能者の身体の強さ

 子どもの頃からの鍛錬の賜物である伝統芸能者の身体の強さに関しては畏敬の念で眺めてきた。ブレない身体軸、これは稽古の基本に舞いが大きく占め、幼少の頃から仕込まれるからだ。身体がブレれば不安定感が伝わってしまう。現代劇の俳優とはそこに雲泥の差がある。(156p)

前掲書

演者に求められるもの、観客の感度

 演者にとって必要なトレーニング(略)「踊る」、「語る」、「歌う」、「闘う」、できれば「演奏する」身体(略)全身が宇宙と感応し合えるリズム体としての身体を持つこと(178p)
 体験以上の感銘を与えるにはパフォーマーの強い身体が必要で、それがあってこそ空間は生きてくる。弱いパフォーマーでは自己満足の体験強要にしかならず、空間と観客と演者の間に共振が生まれない。(209p)
 表現者側の表現が強度を持ち、かつ観客側の感度が高ければ、観客は分析以上の「起きているなにか」を感じ取る一方、演者側は観客の反応を敏感に感じ取っては糧とし、表現は相乗的に深化する。表現者側に力がなければ独善的になるか、あるいは、低レベルでの共同幻想空間は作れるにせよ相乗効果は得られず豊かさは生み出せない。一方、観客側の感度が浅ければ、舞台芸術の詩性を感じ取るより先にことばの意味や技術に目が行きがちで、どんなに総合性を持った素晴らしい舞台作品でも理解の深度は浅い。(203p) 

前掲書

芸術は「暗部」の「明部」への転換装置、「公共」の概念

 芸術は「暗部」を通りながらも「明部」に転換させる装置なのだ。だからこそ、芸術は公共財になり得る。芸術の重要性が認識できるようになるには「公共」の概念が育たなければならない。(242p) 

前掲書

 演劇、舞台芸術を考えるうえで参考になりそうな考察の数々であると思う。何かの折に思い出してみよう。


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