評③『シャケと軍手』椿組版2~映画『MOTHER』と比べて

 「その1」を書くだけで数時間かかってへとへとになった、調べものもあったので。短くまとめる元気もなく。
 評は命がけ、命を削って書くものかもしらん。なら、仕事でやりたいものだが、それはさておき。

 椿組『シャケと軍手』を観るうち、客席で最初に頭に浮かんだのが映画『MOTHER マザー』(2019)。先日、長澤まさみが日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した作品だ。
 2014年、埼玉県で実際に起きた、17歳の少年が母方の祖父母を殺害した事件が題材。その日暮らしで放浪癖のある自堕落な母親が息子に、祖父母を「殺してでも金を盗ってこい」と言ったか言わないか……そんなシンママを長澤が演じた、というか、「考え」を外に出さない人間となっていた。

社会から隔絶された思考で生きてきた、共通項

 『シャケと軍手』を『MOTHER』と比べたのは、いずれもモデルとなった事件の“主役”が、社会から隔絶された思考の中で生きてきたのではないかと思われる女だったところにある。そして、いずれも母親であり、さらにシングルマザーである。

 別アカウントで書いた『MOTHER』の母親観は以下である。
・(自分と)同じような言語感覚・身体感覚で世界を受け止めていない
・(自分と)この人、多分、「通じてない」
・「世界から疎外されていた感」の中で育ち、疎外感があっても異性関係は可能なので妊娠、結婚、出産、離婚、再婚し、しかし、子育てはできない、ちゃんと働けないまま、生きてきた。放浪してきた。
・多分、何度も何度も責められてきた。「今度はちゃんとする」ように言われ、「そうする」と言ってきた。でも、多分、何を言われているのかすら、同じ言語感覚ではわからず、なんで、周囲のみんなは自分にぎゃんぎゃん言うのか真面目にわかってなかったのではないか。理解し合える仲間のいない世界で、子どもにすがってきたのか。
・言語を通して他者と理解し合う、その道具である言葉を共有できていないのではないか。それであれば、それから広がる世界は理解し得ない。

世界のつかみ方が異なれば「苦悩」も異なる

 そして、映画は、MOTHERの息子の苦悩は丁寧に描いたが、MOTHER自体の苦悩に関し少なくとも表面上は描いていなかったように記憶する。
 というか、言語感覚、そこから派生する世界のつかみ方が異なるとすれば、「苦悩」という感覚すら異なり、それはもはや表情や動作で表現し得ず、行動を記すことでしか、その人の内部を反映させることはできないのではないか。
 辛そうな表情の演技はなかったと思う。「ちぇ、またか」みたいな反応の顔はあった。考えを外に出さないのだから、感情は遮断されており、表現としては即物的な反応、行動を表すしかなかったのではないか。

 拒絶。虚無。

 それを演じた長澤まさみは上手いと言うべきかどうかわからない。その表情をずっと続けていなくても編集でなんとかなる部分はある。ただ、大きな目で表現できる引き出しがあったとして、そこに、これまでの「元気で強気な女の子」「時に妖艶」に、「虚無・拒絶」が加わったとみてもいいのかも。

内面の苦悩を描く『シャケ』、舞台は弱さを隠せない

 比して『シャケ』の方は、『MOTHER』ほどの虚無感はなく、「隔絶」されたなりの「苦悩」を描いていたように思う。父親のDV、盗癖、高校卒業時の寄せ書き、など、社会と隔絶していく要素は多々あるようだが、内面の苦悩が描かれていた。

「あなたと私は違うが、あなたは私もかもしれない」

 が、そこにあった。

 ただ、映像と舞台の違い、も考慮する必要があるかもしれない。
 映像は、演技や表情を切り取って編集する完成品。『MOTHER』は、長澤まさみが見せた自堕落な表情と身体を切り取って編集することが可能だっただろう。
 また、スクリーンの向こうに女がいた。客席と映像の間に明らかな壁があった。膜と言ってもいい。
 舞台はもともとその場限りの未完成品である。『シャケ』は、主役の女がどんなにひどい言葉を吐こうと、その前後に揺れる身体そのものが目に入り、同じ空間の中を伝わってくる。人間の弱さが隠せない。弱くない人間がいれば、それこそ見たいけれど、そうした人を目の前で見る場は日本にはあまりないかも。

舞台の上で、完全な「悪」は表現できるのか

 『MOTHER』を舞台化できるのか、にも思いは及ぶ。
 舞台の上で、完全な「悪」は表現できるのか。

実際の事件がモデルだと、異化効果は促進される?

 ブレヒト「異化効果」なんて言葉はせいぜい1、2年前に知ったくせに、偉そうに使うんである。詳細に説明すると間違えそうなのでしない。
 実際の事件がモデルだと、それを頭の中に置いたまま観るから、創作の世界にどっぷり飲み込まれることはなく、冷めた目で距離を置いて観て頭の中であれこれ考えるのではないか、と思うが、自分のみかもしれない。

 かつ、今回は犯人が主役であり、その苦悩の内面を描く作品だった。主役とは言え、精神的に問題を抱えていたようだとは言え、殺人の犯人だから「そうは言っても100%あなたに同情することはありません」と、繰り返し自分に言い聞かせながら、観た。

 ただ、自分が殺された子どもと同じ年の子どもを持っていたりすれば、また受け止め方は変わったのかもしれない。

 演劇でも、人生でも受け止め方は、変わる。その時、「こうだ」と思い込んだことが、後で捉え方が違っていたと思い返すことは何度もある。それで後悔しないためには、取り返しのつかないことをしないこと。すなわち、他人の生命を奪ったり傷つけたりしてはいけないのだ。ろう。

 この項はここまで。
 

 

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