評⑭上・青年座『ある王妃の死』芸劇ウエスト5500円→割引、トーク付き
ドラマトゥルク! ドラマトゥルク!
芸劇三題噺? プレイハウス一時中止、イースト完売と来て
池袋の東京芸術劇場は、ここ1週間ほど、自分とやや微妙な縁。
2階のプレイハウス、沖縄物に興味を持ち『hana-1970、コザが燃えた日-』(1/9~30)のチケットをとったら、その日、コロナ陽性の疑いの関係者が出て中止に(その後、陰性とわかり公演再開)。
地下の芸劇シアターイースト(向かって左の方)の、蓬莱竜太のモダンスイマーズ『だからビリーは東京で』(「とある劇団と、何かを始めようとした若者の話です」蓬莱竜太)(1/8~30)、「面白いし3000円だしおすすめ」と知人から情報あり前向き検討中に、絶賛売り出し中の女優伊藤沙莉さんが、「ずっと楽しみにしていた モダンスイマーズ 『だからビリーは東京で』 観劇して参りました」とツイッターでつぶやいた効果か、あっという間に完売。うーむ。3000円ならさっさと行けばよかった。
で、シアターウエスト(向かって右の方)は、劇団青年座第246回公演『ある王妃の死』(1/21~30)を観にいった(1/27)。作・シライケイタ(劇団温泉ドラゴン代表)、演出・金澤菜乃英(青年座)、ドラマトゥルク・沈池娟(シム・ヂヨン)。前売り指定5500円だが、関係者割引があったので行った。アフタートーク(シライ、金澤、沈)付きの日(以下の内容にトークの内容も一部反映)。
新劇は自腹鑑賞ではあえて選ばない傾向だが
青年座と言えば、文学座、俳優座、民藝、昴、円など「新劇」劇団の一角。高畑淳子が有名で数年前に息子の事件が報じられ、大騒ぎになった。とは言え、高畑淳子をその後他の舞台で観たが、存在感のある演技をしていたので、それはそれ。さておき、青年座に限らず、新劇の演じ方や作り方は「一定の質」が担保されつつも、自分には、ある程度想像がつく気がするような、「確か上手い、んだろうけど……面白いかな……うーん」みたいな。なので、せっかくお金を払うんだし、新しいわくわく発見が欲しい自分としては、あえて新劇を自腹鑑賞にしない傾向あり(観劇初期は見た)。
たとえばこういうのが、新劇俳優陣そろい踏み的な感じかな。この日劇場にあったPR用チラシだし、俳優さんだから掲載させていただく。
ただ、演目によっては興味もある。今回は関係者割引があったのがきっかけではあるが。
歴史ストーリーを丁寧に伝える、無駄を削いだ演技
で、結果的にはコロナ禍迷いつつも、観にいってよかったと思う。自分は割引料金(『ビリー』より少し高い料金)なので、その辺は割り引き。
※以下ネタバレあり
シライケイタの書下ろし。1895年に起きた、朝鮮特命全権公使・三浦梧楼らによる、朝鮮王朝第26代国王「高宗」の王妃・閔妃(びんひ)殺害事件(乙未事変=いつびじへん=)を題材にした重厚な歴史ストーリーだ。
朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清が戦った日清戦争(1894-95)、朝鮮の独立承認、遼東半島などの日本への割譲を認めた下関条約(1895)、ロシア・フランス・ドイツが遼東半島の朝鮮への返還を迫った三国干渉(1895)の後、三浦梧楼中将が朝鮮国特命全権大使として韓国に派遣され、ロシア寄りとなった実力派の閔妃を暗殺した、という出来事(パンフから抜粋)。
公式な資料がほぼ皆無な中、関係者の手記など日本語の資料しか読めないシライケイタがドラマトゥルクの沈池娟とやり取りする中で、日韓の考え方の違いや最新の研究で明らかになったことなどが浮き彫りとなり、修正しつつ作品ができた。謎の多い王妃の部分はほぼフィクションだそう。
日本であまり知られない事件のため、会話劇でストーリーを丁寧に伝えることが必須だったようだ。役者は情報と感情が凝縮された台詞(シェークスピアみたいな)を語り、オーバーな動きは押さえ(ていたと記憶)、それ以外は表情やわずかな身体の変化程度が提示されていたように思う。この場合、訓練され無駄を削ぎ落した演技のできる青年座の芝居は合っていた気がする(今回だけかもしれないが)。
では、感想を思いつくまま。
舞台美術、長田佳代子 空間を斜めに切る
1.<舞台美術>長田佳代子。どこかで最近聞いた名前と思ったら、このnoteで直前に書いた(評⑬)『九十九龍城』も手掛けていた。売れっ子の方なんですね。九十九龍城の時は、客席と正対する空間の中に縦横奥地下隙間をびっちり作りこんだ。公演主宰のヨーロッパ企画が「先に長田さんに舞台を作ってもらってあとから台本が来る」みたいな話をパンフに書いていた。
今回は、客席と正対ではなく、90度前後に切り込んだセットを重ねる。最初に思い浮かんだのは、劇団チョコレートケーキの「治天ノ君」(2019/10/03~14)。確認すると、場所は隣イースト。上手手前から下手奥への斜めの動線が目立っていた。その時の美術は鎌田朋子なので違うが、正対せず直線で斜めに空間を切る方法で想起したか。
傾斜のついた八百屋舞台(開帳場)の多い堀尾幸男の美術は、知らずに観た後で「やはり」と気づくことも増えたが、今回自分の頭に長田佳代子がインプットされた。アマチュアの観劇でも、回数を重ねると役者の演技以外のものが「比較」できるようになってきた気がする。
ドラマトゥルク無くしてこの作品の存在はない
2.<ドラマトゥルク>ドラマトゥルクが前面に出て、ドラマトゥルク無くしてこの作品は存在し得なかった、と感じさせた。
ドラマトゥルクという言葉(ドイツ語)自体を数年前に知ったばかりだが、日本で先駆者とされる長島確(フェスティバル/トーキョーのディレクター)の話は何度か聞いており、なんとなく理解している(つもり)。ドラマトゥウルギーと言う言葉も。日本語で一口では説明が難しいが、作品、演出、演技、制作など舞台に関する調整役みたいなものと言えるか。医療コーディネータのイメージとか?
ただ、まだあまり活用されていないし、表舞台に出ることも少ない。
で、今回の作品チラシでは、作(シライ)、演出(金澤)に次ぐ3番目に名前(沈池娟)が出ていた(4番目の美術=長田の前)。
1/27アフタートークもそのシライ、金澤、沈の3人が登壇し、沈が日韓のとらえ方の違いや、この作品を通して客にどう受け取ってほしいかなどの思いをわかりやすく話したので、この作品になくてはならない存在だった、このドラマトゥルク無くしてこの作品は存在し得なかった、と感じさせた。
今回は、主に作品のドラマトゥルクだったのだろう(ドラマトゥルクもいろんな範疇にわたる)。たとえば大河ドラマなどで名前を見る歴史考証担当のようなもの、と言えないでもないが、舞台を作り上げるまでの関わり方が少し違うかも。
日韓の「温度差」、韓国内の「差別」
閔妃殺害事件(乙未事変=いつびじへん=)は公式資料はほぼなく、シライケイタは日本語で読める資料を漁ったが、せいぜい関係者の手記らしい(韓国取材も準備したがコロナ禍で行けず)。ドラマトゥルクの沈池娟と情報交換する中で、日韓の「温度差」等が明確に浮き出てきた。
・韓国人はほぼこの事件を知っているが、日本人はほぼ知らない
・韓国ではミュージカル、大河ドラマになるくらい有名
・日本では「閔妃は悪女」「高宗は弱気」「高宗が閔妃に依存した」というステレオタイプな説が強いが、最新の研究だと、ふたりは対等なパートナーだったという説も出てきている
・韓国では、閔妃は綺麗で政治力のあった女性として英雄視されている
・公演パンフにも掲載され、いろんなところで出ている「閔妃の写真」は偽物。そもそも資料がない。写真も残っていない。
みたいなところを考慮し、シライが作品に厚みを増していく。さらに、
王妃殺されてかわいそう、だけではない
・最初の構想では、朝鮮王朝を裏切った朝鮮人で日本主導の訓練隊大隊長・禹範善(ウ・ボムソン)(※劇中ではわかりやすく、「ボンちゃん」と呼ばれていた)(1905に日本国内で復讐されメッタ刺しで暗殺)は、日本軍に付いた理由は「(自分の所属する)訓練隊が閔妃の意向で解散されると、家族が路頭に迷い、生きていけない」という家族の理由だけだったが、創作途中で朝鮮王朝の厳しい身分差別の話を加えた。ボンちゃんは貴族階級「両班(ヤンバン)」の下にある「中人(チュンイン)」に属し、身分差別に苦しみ、それがゆえ国を変えたいと願う思いがその行動に走らせたとした。
ドラマトゥルクの沈は、この内容が加わったことを「ありがたい」感謝(トーク)。
朝鮮王朝で貴族(中心の政治、社会)の腐敗があり、庶民が苦しんだのは事実。それに目をつぶって、「王妃が殺される、王朝かわいそう」だけではないと言いたかった、と沈。
沈は、多層的な世界の広がりをこの作品に期待したことがよくわかる。公演パンフでも「(前略)一歩引いた目で見ていただきたい。舞台の余白が豊かな銅像力と心象によって埋められていくことを願う」と書いている。
価値観の押しつけ、ではなく、シライケイタも書く「客席の想像力」に任せる、そのためのものを作る。
素晴らしい、天邪鬼の自分が珍しく素直に感嘆した。素晴らしいドラマトゥルクだ。沈とシライの苦悩のやりとり、それを受け止め何度も稽古場で話し合ったという青年座、その総体でできた芝居。
他国の話でなくても、ドラマトゥルクは有効なツール
なお、今回は日韓関係という「異国同士」の話で「様々な翻訳」が必要だったこともあるが、別に他国の話でなくても、芝居にドラマトゥルクは重要であることを示したのではないか。
例示として、演出家の言うことは絶対、とばかりに、演出に気に入られる演技や制作に走る現場が今日もどこかにありそうだ。演出家がそれを望んでいなかったとしても。いや、自覚して、「これは〇〇(ある個人、安倍晋三でもいい)ワールドだ!」と誇示するならそれはそれで一つの作品だろう。
しかし、集団創作とは、その一歩はたとえばあるひとりの発想であり、最終的に作品に落とし込んでまとめるには「強引なパワハラもどき(!)まとめ技」が必要なこともあるとしても、少なくともその途中では、対話し、議論し、苦悩し、変化していく過程が必須ではないか。自分はそういう作品が好みなのだ。というか、「変化」がなければ、何の意味があろう。
何百回、何千回と演じられた古典も、本来はその都度読み込み直す必要がある。新作も古典も、魅力ある作品を作るに際し、ドラマトゥルクは有効なツールと確信する。
さて、ドラマトゥルクを語りすぎ、かなり長くなってしまった。いったん、ここまで。
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