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評㉛成田凌初舞台で座長『パンドラの鐘』@コクーン、S席11000円

 さて、これを公開するか悩んで寝かせたが、公開する。
 一応私見だけでなく、最後に他人の意見も併記する。
 あくまで、自腹を払って観た素人の私見である。

 作・野田秀樹、演出・杉原邦生『パンドラの鐘』@シアターコクーン、6/6~6/28(全25回)、大阪公演7/2~7/5。成田 凌、葵わかな、前田敦子、玉置玲央、大鶴佐助、柄本時生、片岡亀蔵、南 果歩、白石加代子

 『パンドラの鐘』は、故蜷川幸雄が野田秀樹に頼んで書き下ろしてもらい、1999年に蜷川演出版(大竹しのぶ、勝村政信、生瀬勝久、松重豊)、野田演出版(堤真一、天海祐希、古田新太、松尾スズキ)で競作した作品という(後で知る)。23年ぶり、杉原版だ。
 ということを全然知らず、野田秀樹作品というのであまり考えずにチケットをとる。と思ったら、NODA・MAPでなく杉原演出だった。まあ、いつまでも「大御所」ばかりが仕切る世界でもダメだし、39歳杉原には興味がある。そういや、さいたまゴールド・シアター最終公演『水の駅』も杉原演出だった。お手並み拝見といこうではないか。と思って観た。
 ちなみに、ヒロイン役の葵わかなは5月にコロナ感染したが、無事に回復して舞台を務めた。

剥き出しの、モノクロの世界から始まった

 上演前、客の目にさらされたのは、ブラックボックス的に剥き出しにされた「ほぼ素のコクーン舞台」。コンクリートの壁、上の通路と中の通路、後方の大扉と勝手口的な小さな扉。棚?、垂れ下がる暗幕、ライトなどetc. 床はフローリングっぽく見え、スタジオのよう。商業舞台的ではなく、稽古場のようで、懐かしさまで覚える。総客席数747席の中劇場だが、特に上方の通路を見ると、やや大きめの小劇場(矛盾?)の匂い。
 唯一演出的だったのは、高さの異なる白い四角い柱が4本立つことか。

 そういやコクーンで何度か芝居を観ているが、後方の大扉を観た記憶は、2019年10月の市川海老蔵主演『オイディプス』くらいだろうか。マシュー・ダンスター「翻案」で、特殊な状況を表現するために、やはり「ほぼ素のコクーン舞台」を使っていた記憶。

 剥き出しの舞台。響くのは空調の音、客席からはそこここで咳払い。
 ここに成田凌が飛び込んできて、スポットライト。芝居が始まった。ここまでは、鮮やかな色彩の無い、モノクロの世界だった。

大扉の外は、本物の外

 一転、明るい照明。紅白の大きな垂れ幕が左右奥にさーっと垂れ下がり、「剥き出し」を覆う。この後は、色のある世界が展開された。
 では、あのモノクロの世界は何だったのか……と思い続ける。
 すると、最後に再び、剥き出しのモノクロ舞台が登場し、そして大扉が開く。そこは、外だった。

 新宿・花園神社のテント芝居ではおなじみの、最後に奥が開いて日常につながる演出。他に吉祥寺シアターや錦糸町・シアター倉などで拝見。
 そういや、ここは一階だったか。運送用トラックが駐車し会社名まで見え、脇をマスク姿の仕事中の人が通り過ぎていく。
 後ろの扉、開くなら開けてみたいだろうなあ。。と思ったら終わった。

 ここまでが舞台装置としての話。
 後は、途中で「鐘」を吊り下げるための作業が見えるようにやっていたのが面白く。

長崎の伏線回収、野田作品の知的ゲーム、浜の「死体」

 『パンドラの鐘』自体は23年前の作品なので、知ってる人は知ってるわけだが、伏線としては、大正天皇か二・二六事件の話かと思わせて(自分だけかもしれないが)、長崎の原爆に持っていく。
 長崎、という伏線が、言葉でどれくらい語られたか記憶にない。ただ、ピンカートンというキーワードは何度も出てきて、それは蝶々夫人の話であり、すなわちその舞台である長崎となる。
 毎度だろうが、観る側にある程度の“知識”“教養”がないとついていけず、なので野田作品を観る人は、一種の知的ゲームを楽しんでいるように思う。

 蛇娘(娘道成寺)ネタもあったな。
 旧石器捏造事件も関係あるかと思ったら、それは事件発覚は2000年で作品の前だった(言い当てたか)。

 また、「死体」がたくさん出てくる。その中に「津波のせいに」という言葉がある、たくさんの死体が浜に打ち上げられた、という表現がある。
 2011年の東日本大震災が、頭に思い浮かぶ。震災からしばらくは、表現として控えることも多かっただろう。サザンの『TSUNAMI』がしばらく流れなかったように。日本で暮らしてきた表現者であれば、そのことはもちろん、わかっているはずだ。2011年から11年経過したのだと、改めて確認した。

しなやかで機敏な人たち

 野田秀樹の舞台では、台詞回しが早く、身体の動きも綺麗で機敏な印象があるが、この舞台でも、役者たちの身体の動きはしなやかで機敏だった。
 踊りというか、舞というか、を担当するグループの人たち、いわゆる有名人枠でない人たちだが、身体の動きは十分に訓練されているように見えた。「死体」として引きずられたり、うごめいたり、黒子でありながら表情を出したり、動く装飾のようでもあり、なかなか興味深かった。

俳優たち

 ※以下、年齢は観劇した日時点
 昨年NODA・MAP『フェイクスピア』で一時台詞が飛び棒立ちになったとされる白石加代子(80)、今回は危なげなく、重要な脇役をこなした。次の台詞が出てくるまでに一瞬間が空くことが何度かあったように感じるが、問題の無い範囲だ(そもそも野田芝居の台詞が速い)し、いったん口を出た台詞はよどみなく、迫力ある。年齢を考えれば、やはり凄い。
 白石の相方役玉置玲央(37)、劇団柿食う客所属は白石と共に脇を締め、主役を盛り上げた。大鶴佐助(28)が年齢より上に見える演技と思ったら、唐十郎の息子か、でもなかなかの存在感だった。狡かったり狂ったりの「変な」役どころをこなした(四代目)片岡亀蔵(60)は、年齢的にも雰囲気的にも微妙な立ち位置だが、歌舞伎役者さんでしたか、安定の演技。
 榎本時生(32)は期待通りの演技、大鶴佐助が目立った分、あまり目立たず。南果歩(58)は実は出てるの知らなくて後で確認してびっくり、テレビに出る系でないベテラン女優さんかと思った、ベタベタの派手なおばちゃん役、うまいことこなしていました。前田敦子(30)、この人は『フェイクスピア』の時にキラキラの圧倒的存在感と通る声を知ったが、今回もよかった、舞台に向く。

 葵わかな(23)、一か月前に新型コロナに感染したが、問題なく飛び回っていた。14歳の姫の可愛らしさ、若々しさをを体現するため、こちょこちょ走り回った。笑うとたれ目になる顔は愛嬌があり、しかし、凛として話すときは凛としていた。声も通っていた。身体の動きは、『Q』の広瀬すずに似ていたかもしれない。

なぜ成田凌が座長だったのか、実力不足では

 で、成田凌(28)。
 
モデル上がりの顔や身体はバランス取れてかっこよかった。が。
 なぜ、彼が座長だったのか。
 朗読劇をのぞいては、舞台初挑戦らしい。
 「舞台初挑戦で座長」、それも売りだった。

 私が見たのは東京楽日。
 最初、低めの声で「一所懸命発声しているように」聞こえ、やや不安になった。ずっとこの声で行くのだろうか。
高くなったり、細くなったり、抑揚をつけたり、しないのか?
 結局、ずっと叫んでいるように見えた。
東京楽日だったから声をつぶしたのか、どうか。など、心配した。
 緩急がない。
 葛藤とか苦悩とか、感じられなかった。
 
成田凌初舞台、が売り物だが、明らかな実力不足ではないか。

 葬式屋という役柄なので、擦れた感じがあるのはいい。
 しかし、主役だから、そこに葛藤や苦悩が表現されてしかるべきではないか。
 戯曲の台本にその台詞がもし明確に存在しなくても(杉原版がオリジナルに手を加えたかは知らない)、目線、表情、間合い、立ち居振る舞いなどで表現するものではないか?
 それが、感じられなかった。自分には。

 その日、東京楽日はスタンディングオベーションだった。しかし、自分は立たなかった。横の人が自分を気にした、確かに前は見えない、舞台に何度も戻ってくる役者たちが見えない。でも立たなかった。
 楽日まで皆さんよく頑張ったと思う、その拍手はしたかった。
 主役の演技が心に響かなかった舞台に、スタンディングオベーションをするわけにいかない。これを認めたら、今後芝居の評価などできなくなる。アマの舞台ならともかく。
 自分が観た感じはこうだった。
 ・声の幅が狭い(高低、抑揚)
 ・立ち姿、所作が、ただ動いているよう
 ・東京楽日で、体力を消耗し、バテているようにも見えた。そこに台詞を置きに行っているような
 ・このため、感情の起伏、余韻が客席の「自分」に迫ってこない
 舞台役者としての身体が、間に合わなかったか

 成田凌の芝居の出来栄えが、多くの人から見て「よかった」のか。 
 であれば、日本の芝居の終わりだ(大げさか)。でなければ、そんなことを言ってる自分の終わりだ(かもしれない)
 彼が自分の演技を正直に見直し、今後につなげることを期待したい(偉そうだな)。

「期待したほどではなかった」と言った、舞台演劇人

 ……ともやもや、もんもんを抱えているところで、ある「舞台演劇人」と立ち話の機会があり、この公演のことをぶつけた。この「舞台演劇人」は、まあ、かなりのキャリアの方。
 その人は別の日に観ていた。「期待したほどではなかった」と言った。

 ん? ということは「期待していた」のか
 その人「うん、期待していた。映像の演技は結構いい。結構賞もとってるし」
 私「じゃあ、なんで」
 その人「やはり、初舞台で座長、しかも(一筋縄ではない、素直でない)野田戯曲だから、ちょっと難しかったかも

 ということだ。
 ふーん。検索すると、確かに成田凌は映像でたくさん賞をとっている。
 業界人からすると、期待の役者で、「今回の舞台は……、だが、今後に期待」なのかも。
 映像だと、「表情」で結構作れる。

11000円つぎ込んでこの舞台を選んだのは自分的には失敗

 業界人ならば、「今後の成長」を見込んで受け止めることもできよう。

 ただ、自分は11000円払って、観客の立場で観た

 (たとえば2.5次元舞台のように?)彼の成長を見たくて観に来たわけでなく、それなりに完成した舞台を観るために、自腹で11000円払った。
 その自分からすると、11000円をつぎ込んでこの舞台を選んだのは、失敗だったと言わざるを得ない。5000~6000円くらいならともかく。
 役者のひとり、ふたりがイマイチならともかく、いわゆる“人気者”が座長を務めるミーハー舞台ではない、実力舞台で(これは、その類だろう)、座長が力不足だったのは珍しい、数百本程度しか観ていない素人の自分が思うに。

 コクーンの野田戯曲に、座長として立つには、明らかに力不足だった、と素人ながら思う。。
 映像の演技と、舞台はかなり違ったと、本人も感じているはずだ。でなければ、そう指摘する自分が間違っているのか。ならば、自分が培ってきたはずの鑑賞眼が誤っているのか。
 
 やはり、商業舞台、料金と中身はある程度釣り合わないといけない。
 「プロ」はプロの仕事をしてほしい。


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