・今日の周辺 2023年 すっきりとして、吸い込みやすい空気
○ 今日の周辺
友人がこつこつ更新してくれている共有プレイリストを仕事への行きの電車で聴く。
プレイリストの最後の2、3曲目に追加された曲が爽やかで、秋晴れの日差しが反射で車内にぼおっと入ってくるのとその印象が自分の中に重なって、素晴らしく感じられた。そうLINEで伝える。聴き馴染みのある最後の曲は1番好きな曲。
大地を横切る青虫を見守る季節だ。
自分の楽しみのための料理とか、部屋の掃除、細々としたこと、平日にできなかったことをまとめて済ませる。
会社モードというか、そのままのチャンネルではニュースの記事や読みたい本を読むこと、歌を作ることには臨めないから、あれこれをしっかり済ませたうえで20分ほどの昼寝をしてリセットする。
ニュースや本を読むことを通して、明らかに社会の中で起こっているにも関わらず、社会から疎外された出来事として扱われることに目を向けることは、健常者社会をサバイブすることとは相反しているために、しんどい(一種のサバイバーズギルトとして感じられる)。健常者社会を生き抜き続けることは、そこから疎外された人の存在を忘れることと隣り合っているようにも思えて、このような現状に異議がないと示す側面もあるように思われてならない。私にとってニュースと本を読むことは、そのような毎日に一度ブレーキをかけて自分の言動を省みる機会にすること。そのように省みようとすることがこれらに橋を渡すことになると信じるからこそ丁寧に時間をかけるのだけれど、職場という極めて狭い共同体のなかでは何の問題もなかったように思われた言動も、視野を広げれば自分で批判せざるを得なくなる。そういうギャップが生じることがわかるから、眠ってリセットするというフェーズを挟んで意識的に自分を切り替えないと、自分の言動を冷静に省みることができないし、内容をしっかりと汲み取ることができない。
どのような属性を持つ人、持たされる人も、疎外されることなく対等な立場で社会に包摂されるよう、考えたい。
○ 植本一子『愛は時間がかかる』
幼少期から父親からそのような態度で接し続けられたことで散々思考も感情も振り回された私にとっての地雷(日常の中で思いもよらずどん底に突き落とされるようなトラウマを味わされる場面、という意図で使いたい)は、「人の話を聞く気のない人」、「説明なしにあえて予測を裏切るような言動をとる人」。
その人と必要以上には関わらないように距離を測ったり、そのための工夫をしたり、時には具体的に本人に伝えることで対処しようとするだけでは自身への刺激や負担を安定的に軽減することは難しいということがわかって、自分がトラウマを負っているということが自覚されているのだとしたら、トラウマ治療をした方がいいのだろうか、と頭に浮かぶようになり、植本一子『愛は時間がかかる』読む。
植本さんが自身のトラウマに向き合う3ヶ月間の治療について記録したエッセイ。
本を読むことは、身体を介さずに人の言葉を受け取る方法、心理的安全性が確保され自分の目の前にようやく穏やかな時間が訪れる、感覚が快い。
トラウマ治療、ということ以前に思うのは、静かに、自分が傷ついたということに気づき、受け入れ、外部の乱暴さや粗雑さによって露出した自身の「弱さ」に向き合おうとする、治療や療養の負荷や心労を負う、理解に努めるのはいつも傷ついた方じゃないかということで、まずは何か釈然としない気持ちがある。
「乱暴さ」や「粗雑さ」によって切りつけられることがなかったら、それは単に「弱さ」としてだけ認識されるものではなかったのではないか、柔軟さや寛容さ、形容することのできない貴重な感覚、感性、言動の契機として存在できるものであったのではないか、という感覚が最近ある。
「人の話を聞く気のない人」と一括りにしたくないけれど。十代の頃、自分の話に声に耳を傾けてもらうことのできないことの原因は自身の言語化と伝達能力にあると考えていたから、「自分の言葉」にすることは忘れずに、できるだけ他人にも分かる言葉にすることに努めた。けれど、時間を設けて言葉を尽くしたとしても、届かないものは届かず、聞こえないものは聞こえないのだということ、「伝える」ということには両者の制約だけによるのではない「今はどうしようもない」側面があるのだとわかった。「伝える」ことには即効的な「伝わる」/「伝わらない」の二項では分けられない遅効的な領域がある。私はその時間のことを信じているし、心から信頼してる。そしてそのことには当事者個人だけによらない社会的な側面も関わっているからより複雑だ。
10月は残業が多く、鞄に本を入れていたけれど、1冊も完読することなく途切れ途切れに本を読み、日記を断片的に残した一月だった。
久しぶりにじっくりとした時間の中で一冊の本を読み通し、秋が来たのだということも自分に感じられた。
人に話すこと、打ち明けること、専門医のカウンセリングを受けることは、納得できないままに過ぎ去った過去の出来事に、自分の味方でいてくれる他者を呼び込む、連れ込む行為なのだと思う。
精神や心に支障をきたしたときの通院は、怪我や風邪のように一度や二度の通院で終わったりしないことがあらかじめ想定されるから、終わりが見えないことも含めて不安で何かと億劫。
転職をするタイミングで仕事を引き継いだりして業務が減っていくなかで半ば休業しながら通院にまつわることを検討したり、転職先でどのような働き方なら自分の負担にならないかを考えた。けれど、環境が変われば解消ということでもなく、また新たに検討すべきことは目の前に現れる。別に隠すようなことでないと私は思うし、事実として伝えてはいるけれど、わざわざ毎度話すことでもないこととしてあって、自分が話さなかったら分からなくて、「いつも通り」に振る舞う裏で何か寂しい思いをすることもある。
折り合いをつけにくい人に対して、この関係はよくなるはずだと思うあまり執着するというか、「どうして」と思い続けたり、納得できずにこだわりを捨てられない、みたいな感覚が家族の一人に対して抱かれていた幼少期から十代のときと同じ気持ちのままでいるわけでないけれど、ああ障害になっているなと感じられることがどれだけどのように解消されるといいのだろう、ということはいつも迷う、というか判断し難い。
類似する場面に直面してもそれほど気にならない人と、トラウマになりやすい人、という個人差はきっとあって、だから他者から渡される「考えすぎなんじゃない」という言葉は、確かにそうでもあり、けれどやはり感覚は異なるから、「考えずにはいられない」状態を半ば批判されるのは違うし、箒で掃くような一言で済まされるのはしんどいな、と思う。だから専門医のカウンセリングが必要だし、ある。
『愛は時間がかかる』を読んでいる中で気づいたのは、会社員になったことで自分のなかに構築された他者に対する「執着」みたいなものの薄れだった。フリーランスから会社員にシフトして「1部署1人」のような、ときに責任重大なポジションから、同じ業務を構成員で分業することの気楽さと緩い信頼関係の快さを経験したことによると思う。
これまでは本を読んでいるとき、特に自伝的な内容、エッセイとか私小説的なものを読むとき、人の感情の描写表現に強く入れ込んでしまう、浸りすぎてしまう、ようなところがあって、これもまたその時の自分には必要なこと、せざるを得なかったこと、普段の日常に現れない不可視化されたトピックに関して書き表されているということ、自分が抱いていた切実さに近いベクトルで向き合おうとしてくれる著者の存在がとにかくそのときの私にはありがたかった。村井理子さん『家族』や、斎藤陽道さん『声めぐり』、川上未映子さん『黄色い家』、寺尾紗穂さんのエッセイ、伊藤亜紗さんの著書の数々。
植本さんの文章にはいい意味でノイズが多くて、言葉としての戸惑いの痕跡も、言葉にならなかった葛藤の片鱗も、困っている方にとってはすごくありがたく感じられる。具体的には分かることができないことであっても、そういった戸惑い自体に何か共感したり、心を寄せることができる余白がある。
恋愛とかパートナーシップ、親との関係とか、「自分ともう1人」の2人の間の関係に対して執着せざるを得ないという感覚は今の私には関心の薄いトピックだけれど、本として、普段の雑談にするには言葉が溢れてしまって思うように話せそうにない内容について、方法を変えて伝えようとするパートナーへ宛てた手紙のような文体で書かれており、目的が入り混じった形態に落とし込まれているのが好き。
○ あれこれ
10月はとにかく仕事に忙しく残業をして大急ぎで帰ってはお風呂に入って眠って、また始業時間を目掛けて職場へ向かう、ことの繰り返しだったけれど、自分にとって楽しいこともたくさんあって、岩井俊二「キリエのうた」観に行った。
大好きなのに、はじめて劇場公開で見る岩井作品。
(以下、ネタバレを含みます。)
3時間、濃密だった。涙流れた。
構成も素晴らしく感じられた。震災孤児とその周辺を描いている。
本震の後に津波が陸に到達するまでおよそ25分間あったらしい。
キリエとルカが合流することができてから、何があったのだろう、と描かれなかったキリエの最後を想像せずにはいられなかった。帰りの山手線。
木の上に登ったことで津波に攫われずに助かったルカは、キリエの助言で木にひとり登ったのだろうか。その最後のこと、描かれなかったシーンのことが頭から離れない。キリエが夏彦との電話を切る、その後のこと、実際の行方不明者に関しても生存者にとって知ることのできない過去としてある。
見ず知らずの他人であった人と人とが出会う、顔を合わせる、何か理由があって、言葉を交わす、シーンが岩井作品では大切にされていると思う。
「確かに親の存在は重要だけれど、親に恵まれなくても他人に恵まれたらそれはすごい幸運だ。親に恵まれた人と比べないようにしよう。価値はどちらも変わらない。親は変えられないけど、他人はいくらでも巡り会える。親子として生まれてくるのも所詮は偶然の産物。かけがえのない他人はときに親を超えると思う。」という言葉をふと思い出したりした。
高校2年生のキリエと、高校2年生のルカ、キリエを越えて大人になってから久々に再開するルカ、が幾重にもなって夏彦の中に重なったのだろうということがわかって、どうしようもなかった。
キリエの歌を聴く一人ひとりの映され方、個々に人生があるひとりとして登場していることもこの物語を成り立たせ、結果的に大きな役割を果たしていると感じられた。
単語帳、ギター、歌うこと、言葉、が人の間を行き来し循環する、流れていく、渡っていく。
帰りに最寄駅の本屋で『キリエのうた』買って、帰る。音楽の流れない方の文字での世界もまた楽しみ。
同僚に教えてもらって長い間楽しみにしていた、新宿御苑で行われた薪能「狂言『茸』・能『一角仙人』」も観に行った。
すっかり暗くなった新宿を歩いて、四ツ谷側の大木戸門から入る。
きれいに刈りそろえられた足元の芝と秋の虫の声、誘導灯に集まる羽虫が、会場と今日の演目への導入を作り、出迎えているように感じられる。
目の前で起こっていることに対して想像力を働かせようとする能動と、地謡を耳にするあいだ段々とそれは意味を取ることを離れて心地よいノイズのようになっていくことに身を任せていく受動の間ではっと「何を見させられていたのだろう」という気持ちにさせられるのが好き。終演して、まっさらな舞台を目にしていることに気づいて本当にいつもはっとする。
厚手のカーディガンを羽織っても少し肌寒いくらいだった。秋めいた週末、地謡の低い声と、秋の虫の高い音の中に冷たい風が吹いて、草の香り、天気もよく雲も晴れて半月を越えた月がこんと空に上がった夜。すっきりとして、吸い込みやすい空気が漂いはじめた。
宮沢賢治『雪渡り』で幻燈会、どこでもない場所に連れてこられたかのような、それでいて大勢で目の前に起こることを共有し楽しむという不思議な心地。
一月分のことを書くと長くなってしまう。
新人のフォローアップをしたりするなかで新たに困ることもあるけれど、仕事を分けて任せ合えるのって楽で、信頼関係が嬉しいなって、ようやく「慣れた」と言うことのできる職場でのあれこれに対する気持ちも変わりつつある。
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スタジオにこもって仕事をしていると帰り、最寄駅から家までの道を歩く間、ふと上に目をやると、見上げた先が突き抜けて遠くってびっくりします。